『新マルクス学事典』の項目執筆

執筆は98年初めに完了していたが出版は遅れに遅れ,ようやく2000年5月29日に刊行された。
定価は1万3650円! 執筆者への献本もないので,私自身まだ手にしていない。

(2000年6月,斉藤悦則)

『新マルクス学事典』(弘文堂より近刊予定)は,マルクスをその時代状況に即してとらえかえそうというものである。すなわち,19世紀という歴史空間のなかでのマルクスを見つめなおそうと企図する。等身大のマルクス,あるいは小物だった時代のマルクスをそのままリアルに眺めたい。
 私は次の6項目を担当した:プルードン,『所有とは何か』,『人類における秩序の創造』,『貧困の哲学』,『哲学の貧困』,プルードン主義。
 *印はこの事典の別項を意味する。[]内の数字はマルクス・エンゲルス全集(大月書店)の巻数とページ数をさす。

(1998年3月,斉藤悦則)

『プルードン』
[Pierre-Joseph Proudhon, 1809-1865]

 若いマルクスはプルードンをフランス社会主義の最も良質の部分と見なし,「彼の著作はフランス・プロレタリアートの科学的宣言」[2:39]であると言ったが,1846年を境に評価は一変する。「彼は資本と労働のあいだを……たえずうろつくプチ・ブルジョアであるにすぎない」[4:148]とされた。たしかにプルードンは職人的な労働者であったし,ある時期には経営者でもあった。しかし,そうした経験の裏打ちがプルードンの思想に独自のふくらみと説得力を与えているのである。プルードンは1809年1月15日フランス東部の都市ブザンソンに生まれた。マルクスより9歳年長である。田園のなかで育ち,家は貧しかったが17才まで学業を続けることができた。公共図書館の常連となるほど本好きで,コレージュ中退後は市内の印刷所に就職し,しごとをつうじて学者・知識人と知り合い,文章の術を学びとり,学問研究のスタイルを会得する。同郷の社会主義者フーリエ*ともそこで出会い,本人の述懐によれば一時期「この奇妙な天才のとりこ」となる。印刷職人としても着実なステップアップを重ね,植字工から校正工となり,職人の伝統にのっとって「フランス巡礼」をしたあと,友人と共同出資してブザンソンで印刷所を開き27才にして「親方」となる。多能工化を労働者の人間的成長と重ねて見,労働者に自立的な創意工夫の努力と自己責任の倫理を求めるプルードンの観点は,彼の職人的な出自に由来する。印刷所は経営難で2年後に破産する。友人は自殺し,プルードンに多額の借金を残した。プルードンは晩年の著『労働者階級の政治的能力』の末尾で,「労働者たちは自分自身の苦しさしか視野にない。ブルジョアの難儀苦悩には想いが及ばない」と書いているが,これも彼の経験にもとづく独白である。

 印刷職人時代,プルードンは言語学に興味を覚え,28才のとき最初の著作『一般文法論』を自費出版しているが,印刷所経営破綻をきっかけに学問研究志向をますます強める。プルードンの頭脳優秀さを知る地元知識人たちの後押しで応募した奨学金(年額1500フラン)に当選し,1838年11月から3年間パリで勉学に専念できるようになった。40年の著作『所有とは何か』*はそのきわだった成果である。初版500部で世に出たこの本は「所有とは盗みである」という衝撃的なフレーズでしだいに評判となり版を重ねる。若いマルクスを大いに感動させたのもこの本であった。プルードンは所有に関する著作を41年,42年とたてつづけに出版し,新しいタイプの社会主義者,経済哲学者として有名になっていたが生活はなおも苦しく,43年,同郷の知人がリヨンで経営する水運会社に会計係として雇われる。といっても,じっさいにはきわめて恵まれたポジションで,月給200フランをもらいながらほとんど自由に研究ができたし,数度にわたり長期のパリ滞在も許されていた。この立場を利用してプルードンは43年に『人類における秩序の創造』*を書き上げ出版する。パリ滞在中はマルクスを含むさまざまの亡命知識人と交流している。とくにドイツ人たちはそれぞれの思惑から有名人プルードンとの結びつきを深めようと競い合った。44年9月から45年2月にかけての滞在中,プルードンはマルクスとも数度にわたって会っているが,むしろグリュン*と親しくする。グリュンはドイツ哲学をわかりやすく解説してくれる人物として,また生活苦のなかにあってもがんばる姿を示して,パリの知識人・労働者のあいだで受け入れられていた。マルクスやエンゲルスはそれにいらだち,グリュンへの警戒をよびかける手紙をプルードンに送る(46年5月5日付)。プルードンはこの手紙の前段にある独仏同盟結成の企てに原則賛成を表明しながら,グリュン攻撃についてはたしなめる返事を書く(同年5月17日付)。これを境にプルードンはマルクスたちにとって敵と見なされるようになる。46年10月,プルードンが『貧困の哲学――経済的諸矛盾の体系』*を出すと,マルクスは翌47年7月『哲学の貧困』*でこれを悪罵した。プルードンは黙殺する。

 1848年革命*直後から,プルードンの活動は社会的実践へと大きくシフトする。『貧困の哲学』でえた相互主義のアイデアにそって経済問題解決の糸口を金融の場面に求め,「人民銀行」という名の相互信用金庫の創設を企てた。新聞『人民の代表』を発刊し,銀行計画のアピールにつとめる。新聞の発行部数は平均4万部,1日平均250フランの利益をあげるほどであった。48年6月の国会議員補欠選挙で当選したこともプルードンの人望と名声のほどをうかがわせる。6月蜂起*後の反動議会のなかでは孤軍奮闘し,マルクスもプルードンの没後にその勇敢さを賞賛している[16:28]。プルードンは49年3月,大統領ルイ=ナポレオン*を中傷した罪で禁固3年と罰金3千フランを課せられ,人民銀行計画もこのとき潰え去った。『19世紀における革命の一般理念』(1851年)は獄中で執筆したものである。53年,生活の資をえるため書いた『株式投資マニュアル』は予想外の売れ行きを示す。プルードンは労働者の中産階級への育ち上がりを期待したが,それは人民の自己統治能力への信頼と一体のものである。55年頃,プルードンは『経済学』と題する大著の執筆にとりくみ,集合存在としての社会の動態を大きくつかみとる新しい社会科学の構築を企てているが,これは未刊のままに終わった。その手稿にはかつてのマルクスの論難に応えようとする意図もうかがえる。58年の大著『正義』もよく売れたが,逆にそのせいで公序良俗壊乱をとがめられ,プルードンはベルギーに逃れた。亡命中も,また62年に帰国した後も数々の著作を出し,思想界にインパクトを与え続けた。所有を個人の自由・自立・自己責任の根拠と見なす『所有の理論』を遺して,65年1月19日,病没。

文献:P. Haubtmann, Proudhon (1809-1849), Paris, 1982; id., Proudhon (1849-1865), 2 vols, Paris, 1988.

 

『所有とは何か』
Qu'est-ce que la Propriete? 1840]

 もと植字工プルードン*が自学独習をかさねて書きあげた著作。「所有とは盗みである」という挑発的なフレーズとその論証の巧みさで著者を一躍有名にした。フランス革命*の人権宣言においてさえ「神聖にして不可侵の権利」とされた所有権であるが,プルードンは諸説のいうその存立根拠の一つ一つを覆す。所有を成立させた根拠そのものによって所有の存立不能性を証明してみせた。セー*,マルサス*,リカードウ*などを批判して,最新の経済学に通じた社会主義者という,当時としては特異な存在となる。プルードンは自らの立場を「科学的社会主義」と名づける。若いマルクスは大いに感動し,『聖家族』のなかでこう語っている:「プルードンは経済学の基礎たる私有財産に…最初の決定的[で]科学的な批判をくわえる。この点はかれがしとげた大きな科学的進歩であり,経済学を革命し,真の経済科学をはじめて可能にした進歩である」[2-29]。

 プルードンは「所有は不可能である」ことを証明したあと,不可能なものがなぜ創設されたのかを考察する。かれによれば,人間の本能であるソシアビリテ(社会をなそうとする性向。感性的存在どうしの内的引力)がまず共同体*(共有)を生み出し,そして人間の自由な能動性が共同体の束縛や抑圧からの脱却を求め,自分が自分であることの証と得ようとして所有を生んだ。共有も所有も,ともに善を求めて悪を結果するのは,人間の社会的本能が意識化されず,人間の自主性が正しく社会化されないことによる。プルードンはヘーゲル*風の言い回しで,共有を第一テーゼ,所有をそのアンチテーゼと見,人類にとって必要なのはジンテーゼを発見することだとした。相対立する二項の矛盾を高次の第三項が解決するという図式は後に放棄され,矛盾の系列的な連鎖こそが社会のダイナミズムの根拠だとされるようになる。しかし,現存するもの(制度)の合理性と不合理性をともに眺めようとする発想のスタイルと,「アナルシーのなかに秩序を求める」革命観はその後も一貫する。

 本書のもうひとつの特徴は集合力の理論である。労働者の協業は個人労働の単純な総和を上回る成果をもたらすのに,資本家はその剰余部分を盗み取っているという素朴な主張にとどまらない。集合存在としての人間(=社会)は個人としての人間とはまったく別個の性格をもつという社会学的理論として発展していく。善をめざした営みが全体としては悪を生む,その皮肉なメカニズムをプルードンは追求していくのである。社会あるいは組織が独特の性質を帯び,自律的な運動を展開するものだと知ること,プルードンにとってこれが社会主義を科学にするポイントであった。

文献:Haubtmann, La philosophie sociale de P.-J. Proudhon, Grenoble, 1980; 佐藤茂行『プルードン研究』木鐸社,1975.

 

『人類における秩序の創造』
De la Creation de l'ordre dans l'humanite, ou principes d'organisation politique, 1843]

 著者プルードンは1840年の『所有とは何か』で展開した方法論をここで放棄する方向へむかう。すなわち,矛盾(たとえば所有と共有)をより高次の第3項で解決するというアイデアを捨て,「矛盾の解消は次の矛盾へとつながり,矛盾は系列的に連鎖する」という系列の法則,系列弁証法を発見する。グリュン*はこの本に感動して抄訳し,プルードンを「フランスのフォイエルバッハ*」と呼んだし,ゲルツェン*は「純粋のヘーゲリアン」と賞賛したが,それらの見なしはいずれも当たっていない。プルードンは自覚的にも,用語法のうえでも,同郷の先達フーリエ*の思想を継承し,科学主義で色づけなおして発展させようとしたのである。対立・矛盾がダイナミズムを産み,いったんバランスをとっても,それはやがてくずれ,つぎの運動につながっていくと見た。社会を静止状態においてでなく動態としてとらえようとする強烈な志向がプルードンにはある。社会に内在する法則,系列弁証法を科学的に発見し,積極的にその法則にしたがうことが人類の課題であり,それこそが社会変革の道筋だという。この考えをさらに具体的,かつ説得的に展開したのが1846年の著作『貧困の哲学――経済的諸矛盾の体系』*である。

文献=P. Haubtmann, Proudhon, Marx et la pensee allemande, Grenoble, 1981

 

『貧困の哲学』
Systeme des contradictions economiques, ou Philosophie de la Misere, 1846]

 プルードンは本書の別名『経済的諸矛盾の体系』どおり,経済事象を矛盾の系列的連鎖として体系的にとらえようとする。1840年の著作『所有とは何か』*で素描された集合力理論(全体は個の総和以上のものであると見る)がさらにふくらみ,1843年の著作『人類における秩序の創造』*で発見された系列弁証法と合体して,その応用が試みられる。すなわち,経済の営みはいずれも人間にとって善きことをめざしながら,必ず同時に弊害をもたらさずにはおかない。新しい次元でその悪弊をのりこえようとする営みもまた同様の道筋をたどるというのである。

 分業・機械・競争・独占・租税・貿易・信用・所有・共有・人口という十のカテゴリーのそれぞれにプラス面とマイナス面がある。ひとつのカテゴリーの否定面を否定する形でつぎのカテゴリーがあらわれるが,これもまたあらたな否定面を不可避的に随伴する。善(肯定面)のみを保持し,悪(否定面)のみを除去しようとしても,それはむなしい。なぜなら,両者はともにそのカテゴリーの本質的な属性であり,ともに必然で等価の存在理由をもっているからである。プルードンはこうした関係をカント*風にアンチノミーと名づけ,現実の経済社会をアンチノミーの連鎖(すなわち矛盾の体系)として描き出そうとした。経済事象の内的対立が経済にダイナミズムをもたらし,アンチノミーがあるからこそ社会は前進する。矛盾がない状態とは停滞であり,生気の欠如であり,死のごとき無にひとしい。たとえば私的所有の弊害を見て共有の賞揚にむかうのはありがちな図式だが,こうした共産主義に永遠の楽園を期待するのは愚劣かつ危険である。もちろん私的所有の弊害を無視するのはさらにナンセンスかつ有害である。われわれはどこまでも矛盾とともに生きることを覚悟しなければならない。

 プルードンは1846年11月7日付の私信で,かれの本当の狙いをこう書いている:「あまねき矛盾をとおして,あまねき和解へ」。すなわち,完全で永続的なバランスはありえないと観念したうえで,なおわれわれはたえずバランスを求める努力をしなければならない。『貧困の哲学』でプルードンは経済学の礎石として「価値」を考え,価値のアンチノミー(使用価値と交換価値の矛盾)の根拠を生産の観点と消費の観点の差に求めた。経済カテゴリーの最終項「人口」においては,人口増加が生産力の増大にも食物不足(消費の増大)にもつながるというアンチノミーを指摘した。こうして叙述は最初と最後がつながる円環的な形をとり,経済的矛盾の解決を生産と消費の中間(=交換・流通の場面)に求める方向が示唆された。マルクスは本書に対する攻撃の書『哲学の貧困』*を翌年出版する。

文献=P.アンサール(斉藤悦則訳)『プルードンの社会学』法政大学出版局,1981;サント・ブーヴ(原幸雄訳)『プルードン』現代思潮社,1970.

 

『哲学の貧困』
Misere de la philosophie, 1847]

 マルクスによるプルードン*批判の書。マルクスはプルードンが1846年に刊行した『貧困の哲学』*のタイトルをひっくりかえしパロディの才を示すとともに,叙述の全体にプルードンへの悪罵をちりばめて,科学的社会主義の先達を言葉の勢いで乗り越えることを企てた。9歳年上のプルードンが労働者階級の出身でありながら1840年の『所有とは何か』*で名をあげ,ヨーロッパ規模の知的スターとして存在していたのに対し,当時のマルクスはまだ無名のままパリ,ブリュッセルあたりをうろつくドイツ人亡命者にすぎなかった。したがって,相手の頭の悪さを言いつのる本書は,知性を誇る著者の嫉妬心と功名心の産物と受けとめられることはあっても,フランス語で書かれたものでありながらフランスの知識人・労働者にはほとんど何のインパクトも与えなかった。プルードンも著者からこの本を寄贈され,読んでいるが,「批判」には何ら痛痒を感じず,むしろ著者を憐れむ。寄贈された本の欄外にプルードンはこう書き込む:「マルクスの著作の真意は,かれの考えそうなことはどれも私がとっくに考え,かれより先に発表しているので悔しいという気持ちだ。マルクスは私の本を読んで,これは自分の考えだと歯がみしている。それが見え見え。何というやつだ!」。たしかに,マルクスは批判をしているつもりだが,それは相手が到達した高みの,その本質的な部分で対決して,議論の次元を高めていくたぐいの批判ではない。相手の主張を勝手にゆがめたうえで,そのゆがみを攻撃する。たとえば,「経済的カテゴリーの良い面を保持して,悪い面を除去せよ」というのがプルードンの形而上学だと嘲笑する[4:136]。この箇所へのプルードンの書き込みはこうだ:「ぬけぬけとした中傷!」。

 しかし,マルクス個人の思想的成長にとっては,この著作はきわめて重要な位置を占める。マルクス自身,のちに『経済学批判』「序言」でこう述懐している:「われわれの見解の決定的な諸点は,1847年に刊行された『哲学の貧困』のなかで,たんに論争のかたちではあったが,はじめて科学的に示された」[13:8]。すなわち,パリ滞在中に「市民社会の解剖学は経済学のうちに求めねばならない」[同]と悟得して開始した経済学研究の最初の学問的成果が『哲学の貧困』であった。その「科学的」方法が『資本論』の方法の原型となっていくという意味でも,マルクス経済学形成史上「決定的な」作品である。プルードン批判としては当たっていないにせよ,マルクスはこの著作によってかれ自身の「以前の哲学的意識を精算する」[13:7]ことに成功した。唯物史観*がここで確立されてゆく。

文献=P. Haubtmann, Marx et Proudhon, Paris, 1947; P. Ansart, Marx et l'anarchisme, Paris, 1969;森川喜美雄『プルードンとマルクス』未来社,1979.

 

プルードン主義
[proudhonisme]

 プルードンの死後,その思想的影響力の大きさはまず国際労働者協会*の成立の場面であらわれる。アンリ・トランをはじめとするフランスの代議員たちは,ロンドンの中央委員会に対抗し,全体の議論をリードしていく。1866年のジュネーブ大会はほとんどプルードン主義の色で染まった。労働者階級の解放は労働者自身による事業であり,そのオートノミーを発展させるうえではアソシアシオン*(労働者を一束ねにしようとするもの)は有害だと主張。しかし,1867年のローザンヌ大会では,個々の労働者の自立の根拠として小所有を容認するトランたちの主張は保守的と見なされるようになる。そして,1868年のブリュッセル大会では,プルードン主義者は敗退してしまったが脱退せず,1869年のバーゼル大会ではマルクスとバクーニン*の論争に反権威主義の立場でわけ入って,マルクスをずっと悩ませ続けたのである。1871年のパリ・コミューン*は国家の廃絶をめざしたプルードンの思想を体現しようとする大きな歴史的試みであった。コミュナールと呼ばれる活動家の多くはプルードン主義者であり,トランの妥協的態度を乗り越えて急進化する。結果は悲惨な敗北に終わったが,プルードン主義は誰のための思想であるかを広く知らしめ,後にアナルコ・サンディカリズムとして蘇生・発展していく素地となる。

文献=J.-H. Puech, Le Proudhonisme dans l'Association Internationale des Travailleurs, Paris, 1907

注)アンリ・トラン Henri Tolain 1828-1897

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