文藝』(99年秋号、河出書房新社)掲載の書評

by 山の手緑&矢部史郎

 

 困難な本である。まず内容を理解するのが困難。著者のアントニオ・ネグリという人は、私たちが尊敬するけっこう偉い共産主義者なのだが、しかし、おっさん何が言いたいのか、さっぱり。さらに困難なのは、生活のべ-スがおもいっきり乱されるということだ。だいたい、こんなくそ分厚い本もらって書評書いてくださいって言われても、こっちにだっていろいろ仕事とか生活とかあるわけだし、勘弁してよ、という意味で困難。君も真面目に読んで、「うーんさっぱりわからない」などと悶絶していたら、仕事も生活も支障をきたすことうけあい。まず、眠れない。仕事も休みがち。わけのわからない用語で頭がグラグラする。歩きながらブツブツ言い始める。停電する。

 だから迂闊に手を出すなど言いたいのではない。逆である。こういう困難な本だからこそ、勢いと迂闊さと若気の至りで買ってほしい。買っとけ。

 おそらくこの書評を読んでいる読者は、つまり『文藝』なんか読んでいるような奴は、どうせ貧乏人であろうから、金からも知性からも縁遠い社会の汁みたいな領域に滞留して、そもそも生まれながらにして社会の汁である私たちが、ちょっと気の利いた本でも買って読んでみようなんて考えることじたい、虫の良すぎる話ではある。知的好奇心だかなんだか、自分自身のなんだかが向上するとかどうとか、そういう展望が持てるような身分なら、時給八○○円で物売りなんかやらねえ。時給八〇〇円の連中が本を買うということは、それはなにかとんでもない間違いであって、その根本的な間違いを隠蔽したり取り繕うために、本の内容を吟味する振りなんかしても、それは間違いの上塗りである。無駄。そもそも図書の選択というのは、金も知性も充分に備えた人間がやることであって、教育のない貧乏人が内容を見て本を選ぶなど原理的に、無理。

 だから、もし君が、自分には学がないとか、自分はあまりいい教育を受けられなかったとか、身に染みて感じたなら、そういうときは六千円ぐらいする分厚い翻訳本を買え。とりあえず五万円ほど用意して、おもいっっきり難しい本、さっっばリわけのわからない本を買うべきだ。外人の書いたもの、生まれも育ちもわからない、毎日何を食ってるのかぜんぜん想像できないような外人が書いた、わけのわからない本。を、たくさん買うのがいい。

 中途半端に貧乏で、中途半端に学がない奴らは、二千円や三千円で叩き売りされている米産や国産の本ぐらいしか買えなくて、ようするに自分の身の丈にあった本を読んで、なにか「理解」をして、言っても言わなくてもいいような内容を語って、なにかを言ったつもリになっている。そういう連中の仲間入りをしたいのなら、外人の書いた本なんか買う必要はない。字のでかい米産・国産本が麿るほど平積みになっているから、自分の興味関心に沿った一番安い本を買っておけば、それが一番「わかりやすい」。

 しかし、そういう安いお話を読むという行為の中に、千年一日のルーティンワークを見たとき、またその内容に、「どうも自分の知っている現実とは連う」と感じたり、「なんかバカにされてるような気がするんだよね」と感じたとき、それだけは絶対に正しい。私たちは支持する。きっとネグリも支持する。あとマルクスも。たぶん。