『スタジオ・ヴォイス』(99年8月号)での書評

by 大杉重男

 

「案ずるより生むがやすし」ということわざがある。かつてあるパロディマンガの中の台詞で、これをもじり「案ずるより横山やすし」と掛けてそのココロを「暴力で解決するんだ、暴力で!」と解いていたのを読んだ覚えがあるが、ネグリが本書で詳述し解明しようとしている「構成的権力」には、その地味で堅苦しい学問的構えにもかかわらず、どこかこのギャグに似たアナーキーな匂いがする。

 すなわち構成的権力とは、「憲法の規範を産出する源泉であり、また憲法を作る権力、したがって国家の権力を組織する根本的規範を指示する権力」と定義される正当な法学的概念であるが、それはとどのつまりルネッサンスのヒューマニズム革命からイギリス市民革命やアメリカ独立革命、フランス革命、ロシア革命といった革命の時間の中でやりたい放題に振る舞っていた権力を意味する。この権力は「多数者」の「生きた労働」としての「民族主義」に支えられ、「政治的なものと社会的なものとが生の世界に介入し、つねにこの両者の区別ができなくなるようなラディカルな構成的過程のなかで世界を不断に揺り動かしながら拡大する」。もちろんそれぞれの革命の過程において、構成的権力は時間の過程とともに腐敗し、「構成された権力」に取って代わられて、少数者が多数者の「死んだ労働」を代議制によって支配する近代世界の構図を再確認することになるのだが、ナポレオン以来繰り返されてきた「革命は終わった」という宣言にもかかわらず、構成的確カは何度でも回帰し、「永続的な解放の道=構成的脱ユートピア」を私たちに示して止まない。

 本書でネグリが最も力を入れて書いているのは、内容的にも分量的にもマキアヴェリからハリントンを経てアメリカ憲法に至る構成的確力をめぐる理論についてのやや啓蒙的にも見える歴史系譜学的分析だろうが、私にとって興味深かったのはむしろ後半第6章におけるマルクスやレーニンが構成的権力をどのように扱ったかについての叙述である。ネグリに「民主主義的創設にとって代わって独裁が、反=権力の代わりに官僚主義的な管理が、大衆の時代とその前進の代わりに[発展段階の理論]が、そして空間の実践としての帝国主義が登場する」ことを「スターリニズム」の特徴に挙げるが、それが「レーニン主義的構成的権力」の必然的な帰結だったのかという問いに対しては「否定形」で答える。実際「ソビエト国家における構成的権力の衰滅にともなうかたちで、たとえ寸断され欺瞞的な仕方においてであろうとも、この同じ構成的権力が資本主義的、ワイマール的、ケインズ的、ポスト産業的な国家の現代的進化のなかにおいて要請され継承されるという事態が生じる」。しかしこの辺りについてネグリの論は必ずしも説得的とは言えない。たとえばレーニン主義的構成的権力がワイマール的権力に継承されたのなら、それはナチス的権力にも継承されたのではないだろうか。ネグリは構成的確力とファシズムとの関係を簡単に否定しているが、本書がソビエト連邦崩壊(この際にも果たして構成的権力は出現したのだろうか)以後における革命理論として有効であろうとするなら、この問題は正面から考えなくてはならないはずである。これに関連して私は、本書の構成的権力についての理論が、ベンヤミンが『暴力批判論』において展開した暴力論とどのような関係を持つのかが気になる。ベンヤミンは、暴力をまず「法措定的暴力」とそれに従属する「法維持的暴力」とに分割し、次に法措定的暴力を「神話的暴力」と名づけ、この神話的暴力と対立しそれが措定する法そのものを破壊する「神的暴力」を、革命的な暴力として評価した。ネグリの構成的権力とベンヤミンの神的暴力との間には類縁性が感じられるが、ネグリはベンヤミンよりもリベラルでありヒューマニスティックである分、ベンヤミンの神的暴力のはらむ不気味なリアリティからは遠いように思われる。もっともこれはドイツとイタリアの国民性の違いということなのかもしれない。

 国民性という事で言えば、日本人が本書を読むとはどういうことなのかも、当然問われなけれぱならないだろう。実際、日本において構成的権力が存在したことがあったのかは、まず心に浮かぶ疑問である。あるいは織田信長にルネッサンスの君主に似たマキアベリズム的「力量」を見ることができるかもしれない。しかし明治維新と、その結果としての大日本帝国憲法を作ったのが構成的権力だったかどうかには議論がありそうだし、敗戦によって成立した現在の日本国憲法については明らかに否と言える。むしろ私は日本の法規範を生み出しているのは、構成することなくただ構成した「かのように」振舞う「統整的権力」と呼ぶべきもののような気がする。それは結局天皇制ということになりそうなのだが、構成的権力の概念を日本の言説空間に導入することは、この統整的権力の分析のために役立ちそうである。