『鹿児島県立短大紀要』第43号,1992年12月15日 プルードンの未発表手編『経済学』について 斉藤悦則 1846年,プルードンは『経済的諸矛盾の体系――貧困の哲学』を刊行したが,この著作は翌年マルクスの『哲学の貧困』によって手厳しく批判される。しかし,プルードン自身がこの批判の書の中に見たものは,ドイツ人青年亡命者の功名心と嫉妬にすぎない。じっさい,二つの書を読み比べると,マルクスの書は批判というよりむしろ悪意にみちた中傷といった性格が強い。そこでプルードンはこれを黙殺する。 47年以後のプルードンの活動は多忙をきわめた。それは『経済的諸矛盾の体系』で一応研究の段階を終り,これからは応用の段階に入ると考えていたからである。こうして彼は新聞を発行し,時局について大いに発言しはじめる。48年革命以後は,国会議員となったり,「人民銀行」の設立を企てたりする、65年に死ぬまで,数多くの著作を発表したが,体系だった経済学理論を展開することはもはやなかった。はたして,彼の経済学研究は46年の著作をもって完了してしまったのであろうか。 じつはプルードンは50年代の初めごろ『経済学』1)と題する著作を準備していた。54年10月,友人あての手紙のなかでプルードンはこう書いている。 「私は今もっと重大で,もっと実入りのよさそうな仕事をしています。まず,経済についての大著がそれです。これを高く売ろうと思っています。目下の生活苦にピリオドを打ち,また年来の借金も清算しなければなりませんからね。この仕事でおよそ2万5千ないし3万フランが手に入るのは確実でしょう。この本は来年6月に出る予定です。でもコレラにかかったせいで,ひょっとすると3ヵ月ほど遅れるかもしれません」2)。 しかし,この『経済学』は結局公刊されなかった。かなりの量の手編が書きためられながら,ついに未発表のままとなったのである、それはながくプルードンの家族の所蔵する手稿群のなかに埋もれ,わずかにプルードン研究者オプマンのみが博士論文作成のために閲覧・利用している。そのオプマンの博士論文(および補助論文)3)でも,『経済学』手稿の全体の枠組みは明らかにされていない。 オプマンは1971年に事故死したが,その少し前,プルードンの手稿群は家族からプルードンの生地ブザンソンの市立図書館に寄贈されている。Fonds Proudhonとしてそこに保管されている大量の手稿群のうち,『経済学』の束は当初 Pr-43 という番号であったが,1984年ようやく図書館員による整理が完了し,あらたに付された番号はMss. 2863〜2867である。 われわれがこれから見ようとするのは,この『経済学』手編の概要である。
手稿のフォーマットと複数の仮タイトル 『経済学」の手稿群は,幾つもの別の仮タイトルのもとに書かれながら,いずれも未発表に終ったものの寄せ集めという体裁になっている。 Mss.2863〜7という番号からもうかがえるとおり,それは大きく分けて五つの束からなる。そして,そのそれぞれがまた複数の束に分けられる。旧番号 Pr-43 のもとでの下位区分番号は,I-0からI-15の計16束である4)。 Mss.2863はそのうちI-0-3を含む。総数239葉であるが,オプマンによる複写(タイプおこし)5),を除けば,正味145葉。主要なフォーマット(単位はすべてcm)は28×43で,プルードンは紙の両面を用いている6)。 Mss.2864はI-4-6を含む。総数は208葉だが,正味は187葉。主要なフォーマットは22×28である。 Mss.2865はI-7-9を含む。総数は136葉,正味は106葉である。フォーマットは初めの6葉(I-7にあたる)が28×43.5,ほかはすべて22×28である。 Mss.2866はI-10-13を含む。総数は287葉,正味は238葉である。主要なフォーマットは21.5×28である。 Mss.2867はI-14-15を含む7)。総数は185葉,正味は55葉で,主要なフォーマットは22×28である。 以上,『経済学』(Mss.2863-2867)のうち,総計731葉がいわゆる手編部分をなす8)。 さて,すでに述べたように『経済学』は幾つもの仮タイトルで書かれた下書きの集成であるが,すべて見渡してみるとわれわれは次のことに気づく。すなわち,プルードンはまずタイトル,そして目次を書き,それから各項目をふくらませるような執筆スタイルをとっている。したがって,手編のなかには単なるタイトルと大まかな目次のみを記しただけのものも多い。執筆プランだけを記したものもある。そこで,われわれはそれらのうち,多少なりとも内容にふくらみのあるものを選んで紹介することにしたい。以下の6タイトルがそれである。
@『経済学――社会哲学の新原理』……Mss.2863のほぼ全体(I-1-3)と,Mss.2865の冒頭部分(I-7)がこれに相当する。 A『経済の新原理――社会科学の新要素』……Mss.2864の大半(I-6)。 B『経済学――新しい科学の構築の試み』……Mss.2864の一部(I-5)とMss.2865の大半(I-8)。 C『経済学』……Mss.2866の前半部分(I-10〜11,およびI-12の一部)。 D『革命の実践』あるいは『経済学――新しい科学の序論』9)……Mss.2866の後半部分(I-12の一部とI-13)。 E『進歩の哲学の諸原理』……Mss.2867の一部(I-14のA)。
執筆の時期について 6タイトルの下書きのうち,最初のものがプルードンが55年に出版しようとした『経済学』の原稿であろうことは容易に推察できる。手稿の束の一番上に位置していることからも,プルードンがこれを中心にすえて,それ以外の手稿をいわば素材として利用しようとしていたことが見てとれる。(内容の面からも,そう読みとれるが,このことは後で述べたい)。また,記述されている事項にも,その執筆時期が54年であったことをうかがわせるものが幾つかある。 たとえば,「序文」と見出しのある紙片の冒頭にプルードンはこう書いている。 「科学を探求して14年,私は研究と論争を重ねてきたが,この長きにわたる探索の成果がようやく得られた。[…]なるほど,経済科学は簡単なものではない。しかし,私がかつて別の著作(『諸矛盾の体系』)で明らかにしたように,この科学の素材はすでにそろっており,構築されるのを待っているだけなのである」10)。 ここでいう14年とは,もちろんプルードンの本格的なデビュー作「所有とは何か」(1840年)を起点にしている。 また,同じく「序文」と見出しがつけられた別の紙片にも,こう書かれている。「2年前,ギヨーマン社から『政治経済学辞典』と題する大著が出された」11)。『政治経済学辞典』は1852年から53年にかけて,2巻本の形で世に出たものである12)。この辞典をプルードンは読書ノートを作りながら読んでいる13)。その作業を契機にプルードンは経済学研究の方法論を大きく変えることになるのだが,それについては後でふれたい。ここでは執筆の時期が1852年ないし53年から2年後であることを確認しておくにとどめておく14)。 次に,AおよびBのタイトルの手稿についてであるが,これらは@と内容的に近似している上に,『政治経済学辞典』の第二巻(1853年)を読んだのちに書いたと思われる部分も含んでいるので15),執筆時期は54年前後と推定される。@との前後関係では,上でほのめかしたような方法論の転換の有無から判断しても,さらに@を完成させるための素材とも思えるような束の配置から推察しても,ABは@よりも先に書かれたものと見てよい。しかし,AとBとの間の前後関係については,今のところどちらが先とも判断しがたい。 最後に,CDEはいずれも1852年のクーデタ以前に執筆されたものと思われる。48年草命の総括と今後の展望といったものに言及しながら,クーデタはまだ知らないといった書きぶりだからである。CやDの手稿を包む新聞の日付がそれぞれ1850年9月30日,あるいは同年8月13日であることもその傍証となろう。 Cの時期を示唆するものとして,われわれは次の記述に注目したい。「12年来,私は批判者として抗議してきた」16)。ここからCは1852年ごろ書かれたことがうかがえる。 DEは内容の点で,プルードンが1851年から1853年にかけて発表した諸著作の原型的性格を示している。すなわち,Dは1851年の『19世紀における革命の一般理念』と,Eは1853年に出版された『進歩の哲学』(1851年末の日付のついた二つの書簡からなる体裁をとる)17)と密接に関わる。とりわけ,『進歩の哲学』はもともと『経済学』の一部をなすものとして構想されながら,自立した形で出版されたものである18)。われわれはこのDEの手稿について,いずれも1851年ごろに書かれたものと推測する。 こうした推定が正しければ,6タイトルの手稿はじつに束ねられた配列とほぼ逆の順序で執筆されたことになる。したがって,われわれはプルードンが執筆した順序(と思われる配列)で,これらを紹介していきたい。つまり,Eを最初にとりあげてみたい。
手編E『進歩の哲学の諸原理』の概要 [目次] 氈D存在するということの諸条件 1853年に,出版された『進歩の哲学』の内容が,やや抽象的な哲学談義といった趣きであるのに比べ,手稿の方はオプマンもいうとおり,はるかに社会学的な性格が強い。 すなわち,『進歩の哲学』でプルードンが力説していることは,時の言葉であった「進歩」を通俗的な概念のまま何かしら絶対的な真理や善きことや美的完成へ向けての直線的な歩みととらえることの危険性である。完成の志向はかならず絶対主義や画一主義にいたる。これに対してプルードンのいう「進歩」とは動くこと,変化することである。したがって,進歩とはわれわれがますます自由になることにほかならない。 手稿『進歩の哲学の諸原理』は,この「われわれの自由」と「わたしの自由」との関係を問題とする。「われわれ」は一人ひとりの「わたし」によって成り立ちながら,しかも個の総和以上の何ものかである。こうした「集合存在」のありようを正しく理解しなければ,社会とは不毛な対立の場,あるいは強者の論理がまかりとおるような場にすぎないものとなる。 このように,手稿は50年代初頭のプルードンの社会哲学的,社会学的問題意識を『進歩の哲学』よりもはるかに鮮明に表明している。この時期以降のプルードンの知的営みのライトモチーフは次の二つである。一つは,動くものを動くものとして,まさしく動態的に把握するような方法論を確立することであり,もう一つは「集合存在」の独自の性格やメカニズムを明らかにすることである。これはすなわち社会そのものをリアルに把握しようという企てにほかならない。 この手稿『進歩の哲学の諸原理』では,固有の意味での経済分析はきわめて希薄である。しかし,ここで重要なのはプルードンがこうした社会哲学を彼の『経済学』の基盤にしようとしていることである。
手稿D『さまざまの革命の実践』 [目次]19) ブルジョワ諸氏へ 第二編.集合存在の知徳体にわたる実在性について 第三編.集合的人間における思考の形態――人民の心理学 第四編.集合的人間の営み――革命の実践 この手稿は,1851年の著作『19世紀における革命の一般理念』とテーマの上で近似性が高いが,両者はどこでどのように相違しているのであろうか。われわれはこの『一般理念』の目次にも目をとおしてみよう。 『19世紀における革命の一般理念』の目次は以下のとおり。 ブルジョワ諸氏へ 目次どおしの比較からも容易に見てとれるように,著作『一般理念』の方は時論的性格が相対的に強い。手稿の方は,具体的な政策提言をほとんど示さず,基礎原理を少しずつ確認しながら,最終段階でようやく実践的結論をわずかばかり提示してみせるという段取りになっている。先にみた手稿E「進歩の哲学の諸原理』と同様,基本的には「集合存在」についての社会学的分析の方がはるかに強く意識されているのである。つまり,プルードン『経済学』の二つのライトモチーフはここでも鮮明で,人間の集合体(プルードンの言葉では「集合的人間」)の独自の性格を総合的に解明するような「新しい科学」の構築をひたすら準備しているプルードンの姿がほの見えてくる。
手編C『経済学』の概要 [目次]21) 第一部 集合存在の心理学 1章.社会=集合的人間22) 第二部 先験的経済学 Economie transcendantale 第一編 歴史――社会の漸進的成立――過渡的諸形態 第二編 実践哲学・倫理・法の裁き 第三編 思弁哲学 一見,いかにも『経済学』というタイトルにそぐわない構成となっている。それは,もともと二つの異なるテーマのもとで書かれたものを後で合体させたことにもよる。すなわち,第一部は「集合存在の心理学」であるが,第二部「先験的経済学」の初めのタイトルは「革命的実践(社会経済の漸進的組成)」だったようである。しかし,ここで重要なのは,固有の意味での「経済学」らしからぬ内容のものをプルードンは『経済学』の大切な構成要素と見なしていることである。 第一部でプルードンは「集合存在の理論」と「経済学」の関係について次のように述べている。 「われわれが研究しようとしている経済は,あれこれの家事,あれこれの国,職業,科学に関わるものではない。[…]われわれが研究しようとしている経済とは,市民どうしの関係,国民どうしの関係,また彼らと人類全体との関係に関わるものである。したがって,この研究において,われわれは家族・市民集団 cite・国民・人類,総じて言えば社会を一個独特の個性として考察する。いま何よりもまず明確にすべきは,この社会と個人との関係なのである」23)。 経済学とは経営の術に関わるものではなくて,人と人とが絡み合い,ぶつかりあうなかで生まれてくるものを見抜く科学だとされる。社会という集合存在の独自のありようを正しく把握していない通俗的「経済学」は,集合体の諸現象に個の論理をアナロジカルに拡大して対応しようとする。これは大きな誤りである。 第二部「先験的経済学」は奇妙なタイトルであるが,ここでのプルードンの問題意識は「動くもの」としての社会をどうとらえるかということである。彼はこの奇妙なタイトルと並ぶオリジナルな(と思われる)タイトル「革命的実践(社会経済の漸進的組成)」の下にこう書き記している。「利害の変転・理念の変転・理想の変転」。そして,この三つの変転に対応して,「第一編=歴史,第二編=モラル,第三編=人類が神と入れ替わる」が構想されている24)。ここでは彼の「進歩」観が語られる。すなわち,動くこと,変転してやまないことが社会の常態だというのである。その運動をリアルにとらえることこそが「経済学」の役割だと考える。 この運動について,彼はこう書いている。 「すべての人間のあいだに,ある隠れた傾向,引力のようなものが存在する。それによって人々は集合させられ,彼らの最大の利益と彼らの自由の最大の発展のために,集団となって行動するようにしむけられる」25)。 一部と二部をあわせることによって,プルードンは社会の営みを「集合的なもの」「動くもの」として表現しようと試みているのである。
手稿B『経済学――新しい科学の構築の試み』の概要 [目次]26) 1章.経済科学について この手稿B(およびA@)は,これまでの手稿EDCと執筆の時期においてズレがあることは先に指摘しておいたが,これら二つのグループは内容の面でも断絶が見られる。はっきりいえば,このB以降からプルードン『経済学』は「普通の」経済学らしくなる。 ところで,この手稿Bの固有の特徴といえば,それはマルクスによる批判(1847年の『哲学の貧困』)に対応しようとしていることである。分業と集合力(および機械)を論ずる予定の第5章にそれがあらわれる28)。 ただし,記述としてはきわめて簡潔,というより単にマルクスの名前とプルードンが対応すべき批判の書『哲学の貧困』のページ数を書きとめただけのものである。すなわち,プルードンはマルクスの書の第二章第二節「分業と機械」のいくつかの箇所をあげ,それに対して応える用意があることをほのめかしている29)。プルードンは青年マルクスからの批判を黙殺してきたのだが,じつは密かに反論を準備していたことは興味深いことがらである。 手稿Bの二つめの特徴は,所有を経済力として肯定的にとらえる視点がきわめて明瞭に提示されていることである。46年の「経済的諸矛盾の体系』第11章「所有」では,まだ否定的な性格づけの方が濃厚であり,51年の『19世紀における革命の一般理念』第六研究「経済力の組織化」2節「所有」では,土地所有に関して限定的に評価するにとどまっている。しかし,54年ごろに書かれたこの手稿では,もっと踏み出して,遺稿『所有の理論』を思わせるような断定的な調子での肯定がなされている。 この手稿の第14章で,彼はこう書いている。 「所有は労働・信用・交換・競争と同様,本当の経済力であり,富を生み出す原理である。したがって,社会の活動の全面開花と経済の均衡のために不可欠なものである。所有とは生産と均衡の原理であること,これこそ光があてられるべき命題なのである」30)。 さて,手編Bの三つめの特徴は,「経済力」の最終項に「家族」をもってきていることである。46年の「経済的諸矛盾の体系」でのそれは「人口」であった。そのときプルードンは「人口」を語るなかで,人口とは消費者であるばかりでなく同時に生産者であるとして,議論をふたたび生産の問題へと還元し,全体として円環的な図式を描き出した。ところが,この手稿での議論の展開は,富の生産からその最終的な消費へという直線的な構図になっている。 家族が一つの「経済力」であることについて,彼はこう書いている。 「科学の対象は労働であるが,その目的は豊かな暮らし bien-etre である。 手編Bは一面で「普通の」経済学の体裁に接近しているものの,反面,プルードンのもっていた独自の問題意識(集合の理論と運動の理論)がその分だけ希薄になっている。23章で,どうにかそれを盛り込もうとした形にはなっているが,下書きではわずかに見出しをつけただけにとどまり,中身の記述はほとんどない。
手稿A『経済の諸原理――社会科学の新要素』
[目次]32) 序論 第1部 諸観念 Les notions 第二編 流通 第三編 消費あるいは再生産。逆の運動 第2部 諸問題
第1部は生産一流通一消費という配列となり,ますます一般的経済学の図式に近似している。少なくとも,この目次を見るかぎりでは,プルードンでなければ書けないといった体裁の「経済学」像は浮かんでこない。とすれば,プルードンの『経済学』を特徴づけるものは,「序論」に見られる社会哲学ということになるのであろうか。 しかし,われわれがこの第1部の配列で確認すべきことは,54年ごろのプルードンができるかぎり「普通の」経済学者と共通の言語や枠組みで対話しながら,通俗的な経済学を全面的にひっくりかえそうともくろんでいることである。プルードンにそれまで見られた「社会学的」な志向が背景に退いてしまっているのも,このように考えてはじめて理解できる。つまりは,彼の戦術的配慮と了解すべきであろう。 第2部では,問題を提示して,各章ごとにその問題の解決方向を示すという形になっている。これは46年の『経済的諸矛盾の体系』と大きく異なる点である。すなわち,46年の書では,種々の項目に内在する矛盾をあばきながら,それを解決すべく登場した項目もそれ自体が矛盾を内包するとして,問題の解決は総体的・全面的なものでなければならないとした。ところが,この手稿では各項目のそれぞれで「バランス」が語られる。この手法は51年の『19世紀における革命の一般理念』で部分的に用いられたものである。そこで,この手稿Aの特徴というべきは,その手法が価値の問題から人口の問題まで,いわば網羅的に貫かれているということであろう。
手編@『経済学――社会哲学の新原理』の概要
[目次] 第1部 諸原理 序文 第一編 純粋哲学 第二編 諸観念・公理 第2部 有機的経済 Economie Organique 第一編 労働一生産。産業活動の概観。――経済力 第二編 交換。生産物の分配 第三編 信用一理念の進化(個別から一般へ) 第四編 所有 第五編 社会集団
第2部の方から先に検討すると,ここでの特徴は経済の系列から「消費」が消えて,そのかわりに最終章が「社会集団」となっていることである。つまり,集団の理論がふたたび重要な位置をしめるようになったともいえる。しかし,ここでのプルードンは「経済学」を論ずるという形をとろうとして,やはり集団の理論本来の「社会学的」な匂いを薄めるよう努力しているように見える。 この手稿@の最大の特徴は,何といっても第1部にあらわれている。すなわち,プルードンにおける方法論の大変換である。この変換に関して,彼はこう書いている。 「私は叙述の順序を変えることにする。先の『諸矛盾』での進め方には一切したがわないことにする」33)。 彼のいう『経済的諸矛盾の体系』での進め方とは,基本的な概念(と思われるもの)の定義づけから出発して,諸観念の継起にしたがって体系を構築していくことであった。彼はその著作の中で「第一期=分業」から「第十期=人口」までの矛盾の系列的連鎖を示したが,この十にわたる「エポック」の配列で諸観念の継起的性格を表現した。しかし,いまやプルードンはその発想を全面的に放棄しようとしている。 「経済の諸観念はたがいに絡み合い,浸透しあい,相互に規定しあっている。[…]したがって,出発点は労働か資本か,信用か価値か,交換か所有か,そんなことは理論を確かなものにし証明をクリアなものにする上で,どうでもよいことなのである。形而上学と同様,経済学においても,諸観念は他との関係でいずれが最初で,いずれが最後かというものではない。それらはすべて同時のものであり,ただ叙述上の都合で発生論的な外観を呈するにすぎない」34)。 新たな方法論とは何か。それは「定義」から出発しないということである。あるいは,とりあえず経済の諸観念は定義不能であるとの断言から出発することである。しかし,この新たな方法論の意義がどういうものであるのかを知るためにも,われわれはプルードンにおけるこうした転換が何を契機としたものであるかを確認しておきたい。 転換にとって決定的だったのは,52年と53年に出たコクラン編の『政治経済学辞典』35)である。プルードンはその4千項目を読み,読書ノートをつけ,「なかなか有益な考え方や貴重な教訓が含まれている」としながら,結論としては「しかし,科学は一歩も前進していない」36)と断ずる。そして,次のように述べる。 「経済学者たちの無能ぶりと科学の不条理さを目の当たりにして,私は仮説を変えた。つまり,定義された諸観念を使いながら前に進むのではなくて,未定義の観念から出発した方がよいのではないかと考えたのである」37)。 では,なぜその方がよいと考えたのであろうか。通常の,あるいは彼自身のそれまでのスタイルではどこが不都合なのであろうか。方法論の転換で彼は何を明らかにしようとしたのであろうか。プルードンはこう答える。 「二つ,あるいはそれ以上の異なる定義が付与されうる理念・事物・関係,これを私は定義不能のものと呼ぶ。[…] こうしてプルードンにおける方法論転換の根拠が明らかとなった。それは「動くもの」を「動くもの」としてとらえるための転換であった。科学的であろうとして「定義」から出発しても,現実は定義づけられた瞬間にするりと身をかわしてしまう。それならば,むしろ初めから定義不能と観念して,可能なかぎり多元的な視点から眺めつつ,たしかな手ごたえのあるものをつかんでいくことの方がリアルな理解に近づけるといえよう。そして,手ごたえのたしかさを保証する装置としてプルードンは「公理」を位置づける。 ともかく,プルードンはここで彼本来の志向である「運動の理論」をさらに高度化させたことになる。このモチーフはいったん希薄化したように見えたけれども,『政治経済学辞典』を媒介としてふたたぴ姿をあらわしたのである。そして,もう一つのモチーフである「集合存在の理論」もこの手稿@の第2部第五編「社会集団」で登場する。したがって,まさしくこの手稿@こそ50年代前半のプルードン「経済学」構築の営みを総括するにふさわしい著作となる予定のものだったのである39)。 それでは,なぜこれほど重要な作業が公表されないままとなったのか。それが最後に残った問題である。これに対して,われわれはまた十分説得力のある説明をすることができない。繊密かつ膨大なプルードン伝記を書いたオプマンによる説明も,これに関してはきわめて貧弱である。すなわち,彼によれば,『経済学』の出版が予定されていた1855年の5月,ミルクールなる人物が誤謬と中傷にみちたプルードン伝記を発表し,これに大いに憤ったプルードンは反駁を準備し,それが後の大著『革命と教会における正義』(1858年)につながった。そのおかげで『経済学』はとうとう世に出ることがなかったというのである40)。 しかし,われわれは1855年以降に出されたプルードンの著作のなかに,この『経済学』で展開されたことがらの再現を見ることができない。なぜ彼がその後,経済学の体系構築をあきらめたのか,それはいぜんとして謎のままである。 (注) 1)原語は定冠詞なしの「エコノミー」である。「経済」と訳すべきかもしれない。プルードン研究者オブマンはこの手編を総じて「経済学講義」Cours d'Economie,あるいは「講義」と呼ぶ。それは最初の束を包む紙の上にそう記してあったことが主な理由であるが,われわれの見るところ最初の束には「エコノミー」と書かれているし,プルードン自身もその他の束には幾度となく「エコノミー」の一語のみを見出しとして用いている。 (平成4年7月15日受理) |
2001年10月25日にHTML文書化 |