第一章 本書における方法論 ——
革命というものの考え方
《奴隷制とは何か》と問われたら,《それは人殺しである》と答えよう。そういう短い答えでも,すぐに理解してもらえるはずだ。人間から考える力や意志や人格を奪うのは,その人の命を奪うに等しい。したがって,人を奴隷にするのはその人を殺すに等しい。これには長々とした説明は要らない。では《所有とは何か》。この問いに,《それは盗みである》と答えたらどうだろう。これは先の問答の変形にすぎないのに,簡単には理解してもらえまい。
本書で私は,まさしくわが国の統治と諸制度の原理そのものである所有について,自由に論じるつもりである。自分なりの研究から導き出す結論はまちがっているかもしれないが,それも私の自由。私は本書の結論を最後にでなく最初に述べたい。それもやはり私の自由である。
ある論者によれば,所有は先占から生じ,法律によって承認された民法上の権利である。別の論者によれば,所有は労働に基づくひとつの自然権である。この両論はまったく相反すると思われるのに,どちらも正論とされ,歓迎される。しかし,私に言わせれば,労働も先占も,そして法律も,所有を生み出せるものではない。所有とは,原因のない結果のようなものである。こんなことは言う方がとがめられるのか。
ぶつぶつとこんな文句が聞こえるようだ。
――《所有は盗みである》,これは九三年に響いた声だぞ。革命ののろしだぞ。
――読者よ,安心してほしい。私はけっして不和の種まき人でも,騒乱の火つけ役でもない。私はただ数日分,歴史を先読みする。どのみち露呈せざるをえない真実を明らかにするだけだ。これは将来の憲法の前文だ。《所有とは盗みである》とは,俗見にしたがえばいかにも冒涜的な言辞と思われるだろうが,しかし,これは激しい落雷を避けるための鉄針となる。ただし,この言葉をめぐって,あまりにも利害が対立し,偏見が衝突し合う。……なるほど,哲学は世の流れを変えるものではない。運命は予言とは無関係に自己成就する。ならば,正義はなす術もなく,たたずむしかないのか。われわれにとって教育はむなしい営みにすぎないのか。
――《所有は盗みである》……常識がくつがえる。〈所有する者〉と〈盗む者〉はつねに反対語であり,現実においても両者はつねに対立する存在であった。どの国の言葉でもこの対立関係は変わらない。ところが,いったい何の権限にもとづいて,この全世界共通の常識を否定し,人類の全体に逆らうのだ。あらゆる国,あらゆる世代のまっとうな理屈を否定するのは,いったい何者だ。
読者よ,それを私のゆがんだ個性のせいにしないでほしい。私もみなさんと同様,事実と証拠にのみ従う理性の時代の人間である。私もみなさんと同様,【真理の探求者】(*)なのである。私は,フランス民法典の文言を借りれば,《憎悪にも恐怖にも駆られず,ただ自らの知ることのみを語る》。われわれ人類の営みは,科学の殿堂をうちたてることにある。この科学は人間と自然を包括する。そして,真理はやがて人類全体におよぶ。まずはニュートンやパスカルが獲得し,やがては羊飼いや職工たちもが獲得するだろう。殿堂を建てるために一人一人が石を持ち寄り,石を置いては姿を消す。われわれの後に無限があり,われわれの前に無限がある。ふたつの無限の間で,科学をうちたてるため,一個人に何ほどのことができよう。
(*)ギリシア語で〈シェプティコス〉。検査官,真理の追求をなりわいとする哲学者の意。
読者よ,私の肩書きや性格など気にしないでほしい。ただ私のいうことが理にかなうかどうか,そこだけ見てほしい。私はただ普遍的な同意をえて,普遍的な誤りを正したいのである。私は人類を信頼すればこそ,全体の意見に異議を申し立てるのだ。私のいうことに耳を傾ける勇気をもってほしい。あなたが素直で自由な心をもち,二つの命題を結びつけて第三の命題を導きだせる人間なら,私の考えはまちがいなくあなたの考えになるだろう。私が冒頭に結論を述べたのは,あなたに喧嘩を売りたいからではなく,あなたに注目してもらいたいからであった。本書を読んでもらえれば,必ずわかってもらえるとの確信があればこそである。本書で私が述べることはあまりにも単純明快なので,あなたはなぜこれまでそれに気づかなかったか,そのことに驚くだろう。「それは考えたこともなかった」と嘆息するだろう。なるほど,多くの著述家は不可思議な現象を示してみせて,自然の秘密を増やし,厳かなご託宣を広めようとする。しかし,みなさんが本書で見出すのは,みなさん自身が経験してきた〈正しさ〉とか〈まっとうさ〉の具体例であり,良心の重みとか度合いについての検証である。その作業はみなさんの目の前で展開され,その結果を評価するのもみなさん自身だ。
さらに言えば,私はシステムをつくらない。私が求めるのは特権の死滅,奴隷制の廃止,権利の平等,法の支配である。すなわち正義,ただひたすら正義のみである。私の言いたいことを要約するなら,それに尽きる。世の中を制御する仕事は他の人にまかせよう。
かつて私も自問した。なぜ社会にはこんなに苦しみや不幸が存在するのか。人間は永遠に不幸せでいなければならないのか。なるほど,社会改良家たちは社会問題を告発して,政府の怠慢や無能を責め,あるいは陰謀家や騒乱を責め,あるいは民衆の蒙昧さや堕落を責めた。しかし,私はそういう説明に納得できなかった。また新聞などの論壇でくりかえされる言い争いにも,うんざりだった。そこで,私は自分で問題を掘り下げてみたいと思った。学者先生方の話を聞きに行き,哲学,法学,経済学,歴史の本を山ほど読んだ。本なんか読んでも役に立たない時代に生まれればよかったと思うほどだ。私は正確な情報を得るために全力を傾注した。諸説を比較し,理論の対立点をつかまえ,さまざまな意見を集約し,凡庸な三段論法は綿密な論理で切り捨てた。もちろん,こうしたしんどい作業をつうじて,私はいくつか興味深い事実を手に入れた。それは親しい友人に教えてあげたいし,時間的に余裕があれば広く公にもしたい。しかし,私はそれよりもまず,私が初めて知ったことを語らねばなるまい。すなわち,〈正義〉・〈公正〉・〈自由〉はきわめて通俗的で,しかもきわめて神聖な言葉だが,われわれはその言葉の意味をまったく理解していないこと。われわれはそのいずれについても茫漠とした概念しかもたないこと。そして,この無知こそが今日われわれを苛む貧困と人類を苦しめてきたあらゆる災禍の,唯一の原因であること。
この奇妙な結論には私自身が驚いた。頭が狂ったんじゃないかと思った。お前,大丈夫か。見たことも聞いたこともなく,考えたことすらないものを発見したというのか。狂った頭に浮かんだ妄想を科学の真理と取り違えているのではないか,と情けなくも身震いした。道徳の領域で普遍的な誤りというものは矛盾である,と偉大な哲学者たちも言っているではないか。ということで,私は自分の判断の反証を自分でやろうと決めた。そこで,問題をあらためてこう立て直した。人類は道徳の諸原理を,長期的かつ普遍的に,間違ったまま実践しつづけられるだろうか。道徳はいかにして,また何ゆえに誤るのであろうか。道徳の誤りがもし普遍的なものならば,それは克服不能なのだろうか。
私はこの問いに答えて,自分の観察の確かさを示したかった。しかし,これらの問いは長々と分析するまでもないものだった。本書の第五章で述べるとおり,道徳において,またあらゆる学問対象についていえることだが,われわれの最大の誤りは科学の等級づけである。正義をあつかう著作においてさえ,間違いを犯すのは人間ならではの特権なのだ。哲学の価値は,私も大事にしたいが,じつのところその価値はほとんどゼロに近い。ものごとに名前を与えるのはたいしたことではない。ほんとうにすごいのは,ものごとが現れる前にそれを知ることである。概念が完成し,情報としても十全なものと化せば,それはやがて私ではない誰かによって表明されるだろう。私はただ自分の先駆性をひそかに誇るのみ。日の出を最初に見たからといって,それで称賛が受けられるだろうか。
そうだ,生活条件の平等とは権利の平等にほかならないと誰もがそう思い,だれもがそう言う。〈所有〉と〈盗み〉は同義である。社会的地位の高さは,その人の才能や仕事が高級だからという口実で認められているが,いや,もっと正確に言えば横領されているが,それは不公正であり強盗行為である。すべての人がそれぞれの魂にかけて,それが真実だと証言するだろう。そのためには,ひとびとにそれを目撃させるだけでよい。
さて,本論に入る前に,私がこれからたどる道筋について少し話しておこう。
パスカルは幾何の問題を解くのにひとつの方法を編み出した。哲学の問題を解くためにも,やはりひとつの方法が必要だ。しかし,哲学の問題は幾何の問題と比べ、現実的な重みでいくらか勝るのではないか。とすれば,その問題を解くためには,どうしてもより深く,より厳密な分析が要請されるのではないか。
現代の心理学者たちがいうには,われわれの知覚はすべて心の働きの一般法則にしたがって規定される。知覚は,悟性の公式として心のうちに先在するいくつかの鋳型にあてはめられてできあがる。それは疑う余地のない事実だという。したがって,生得の〈観念〉は存在しないとしても,少なくとも生得の〈形式〉は存在する,というのである。じっさい,あらゆる現象はかならず〈時間〉と〈空間〉において認識される。出現の原因をわれわれに考えさせるものすべて,いまここに存在するものすべてが〈実質〉・〈様態〉・〈数〉・〈関係〉などの観念を内包している。一言でいえば,理性の一般原理とまったく無縁の思想をわれわれは形成しえない。理性の域を超えたものは存在しない。
心理学者たちはさらにいう。こういう悟性の公理,この基本類型は,われわれの判断や思念が必ず帰着するものであり,われわれの感覚によって明らかとなるものである。この学派では〈カテゴリー〉という名で知られる。それらが心のうちに本源的に存在することは今日証明されている。残る課題は,それを体系化すること,およびその数を確かめることである。アリストテレスはその数を十とし,カントは十五とした。ところがクーザン氏はそれを三から二へ,さらに一へと減じている。この先生は,真のカテゴリー理論を確立したと言えないにせよ,少なくともこの問題の重要性を誰よりもよく理解している。形而上学全体の最大にしてほとんど唯一の問題であることを理解している。その栄誉はたしかにこの先生のものである。以上が心理学者の説。
一方,私の考えはこうだ。私は〈観念〉の生得性も信じず,われわれの悟性の〈形態〉・〈法則〉の生得性も信じない。私が思うに,トマス・リードやカントの形而上学はアリストテレスの形而上学以上に真実からほど遠い。とはいえ,私はここで理性批判などしたくない。それは長ったらし作業を要し,民衆もそれをほとんど望んでいないからだ。私はただ仮説として,時間・空間・実質・原因といったごく一般的で,ごく必然的な観念を,精神のうちに初源的に存在するもの,あるいは少なくとも精神の形成から直接派生したものと見なしたい。
しかしながら,つぎのような心理学的な事実はやはり真実であり,これまでの哲学において過度に無視されてきた。すなわち,人間の第二の天性としての習慣は,悟性に新しいカテゴリーのような形を刻みこむ力をもつ。それらはいかにもわかりやすい形をとり,まさにそれゆえしばしば客観的な現実性に欠ける。しかし,それがわれわれの判断力におよぼす影響は第一の諸カテゴリーに劣らぬほど決定的である。したがって,われわれの理性は,〈永遠〉で〈絶対的な〉法則にしたがうと同時に,ものごとの不完全な観察から得られる誤った第二の規則にもしたがう。これこそが,誤った先入観の最大の源泉であり,多数の誤りのほとんど克服しがたい不変の原因なのである。偏見はわれわれに強い執着心をもたらす。それはあまりにも強いために,しばしば変なことになる。すなわち,われわれの精神が偽と判断し,理性が拒絶し,良心が否定するような原理と格闘する場面でも,われわれは無自覚にその原理を擁護し,その原理にしたがって立論してしまう。われわれは相手を攻撃しながら相手の言いなりになっている。われわれの精神は円周のようなものに閉じ込められ,ただその円周上をぐるぐる回るだけ。そして,新しいものの見方が新しい観念を生み,われわれの外部にある原理を発見させたとき,ようやくわれわれは自分のイマジネーションにとりついた亡霊から離脱できる。
たとえば,今日われわれは万有引力の法則を知っている。根本原因はいまだに不明だが,この法則によって,二つの物体は〈重力〉と呼ばれる推力で加速され、障害物をものともせずに合体しようとする。支えがなければ,ものは地面に落ちる。ものの重さが天秤で測れる。われわれは地上に立つことができる。これはすべて重力があるからだ。ただ根本原因がわからないために,古代のひとびとは地球に反対側があることが信じられなかった。ラクタンティウスも,アウグスティヌスも,こう言っている。「地面の反対側に人が立っているとしたら,彼らは頭が下になり,向こう側の空に向かって落ちていくはず。当然でしょう」。このヒッポの司祭[アウグスティヌス]は地球が平らだと信じていた。大地は平らに見えるからである。大地が平らなら,さまざまの場所で天頂から天底へ直線を引くと,それらはすべて平行線である。上から下へ向かう運動はすべてこの直線に沿う。星は回転する炎として天空にくっつけられているが,そうしないと星は火の雨となって地上に落ちてくる。大地は世界の下部をなす巨大なテーブルである,などなど。これは当然の結論である。この大地自身は何に支えられているかを尋ねたならば,彼は《自分は何も知らないが,神には何ひとつ不可能なことはない》と答えただろう。空間と運動にかんする聖アウグスティヌスの考えは以上のようなものであった。外観にもとづく臆断が彼の全般的で断言めいた判断の基準となり,彼もそれに縛られる。物体の落下の原因となると,彼の頭の中はからっぽ。物体は落下するがゆえに落下する,ただそれだけしか言えなかった。
われわれにとって落下の観念はもっと複雑である。それに内包される空間や運動の観念のほかに,引力あるいはひとつの中心への方向性という観念が加わる。それは原因という,より上位の観念に属するものである。しかし,物理学によってわれわれの判断が十分修正されたとしても,われわれはふだん聖アウグスティヌスの臆断をそのまま用いている。ものが〈落ちた〉というとき,われわれは単に重力の働きの結果を一般的に理解しているだけではなく,特殊個別的にこの運動が地面に向かって〈上から下へ〉行われたことを理解する。われわれの理性はたしかに啓発されたが,想像力の方がやはり勝り,言葉の使い方も昔のまま変わらない。《空から落ちる》は《空へ登る》と同じくらい正しくない表現だが,しかし,人間が言葉を用いるかぎりこの表現は用いられ続けるであろう。
《上から下へ》《天から下る》《雲から落ちる》などの言い方は,いまではたいして害はない。その誤りはじっさいの面で訂正できるし,誤った表現が科学の進歩を遅らせたという自覚もみなさんにあるからである。物体落下の真の原因を知ることや,空間内の方向について正確な観念をもつことは,統計学や機械学,流体力学や弾道学にとってはあまり重要ではないが,天体の運行や潮の満干,地球の形状や天体における位置を説明しなければならない場合では話が違ってくる。この場合には,外観への囚われから離れねばならない。器用な機械技師,優秀な建築家,巧みな砲兵は太古の昔から存在する。彼らは地球が丸いことも知らず,重力にかんしても誤解していたのだが,そのことで彼らの技術の発達は少しも阻害されなかった。建物の堅牢さや射撃の正確さはいささかも失われなかった。しかし,地表と垂直に交わる線はすべて平行と想定したのでは説明のつかない現象が早晩あらわれてこざるをえない。何百年も日常の用に立ってきた種々の偏見と,見た目と矛盾するようなことをいう驚くべき意見,両者の闘いはこのときから始まる。
じっさい,一方は,ばらばらの事実や単なる外見にもとづいており,きわめて誤った判断でありながら,つねに現実の総体をカバーする。現実の領域はあれこれたくさんの推論を引き出すに足る広さであるが,その領域を超えるとわれわれは不条理に陥る。たとえば聖アウグスティヌスが引き出した結論によれば,物体は地上に向かって落ち,その落下は直線的であり,太陽や地球が動き,空や大地が回転している。こうした一般的事実はつねに真であった。今日の科学もそれには何も付け加えない。しかし他方,われわれはあらゆることを考える必要があるから,われわれはますます包括的な原理を探求せざるをえない。そのために,まず地球平面説を捨て,つぎに地球を宇宙の不動の中心とする説などを,つぎつぎに捨てなければならなかった。
さて自然界から人間社会へ目を移すと,われわれはここでも同様に,外見のまやかし,自発性と習慣による影響に服従させられていることに気づく。しかし,われわれの知識体系のこの第二分野は,つぎの二点で異なる。まず,ものの見方の結果として生じる善悪の区別。そして,われわれを苦しめ,われわれを殺しもする偏見をわれわれ自身が捨てずに保持すること。
重力の原因や地球の形についてわれわれがどのような説を抱いても,地球の物理に影響はない。また,われわれの社会経済もそのことからは利益も損失もこうむらない。しかし,人間の社会性の法則はわれわれのなかでしか,またわれわれをとおしてしか成就しない。これらの法則はわれわれが熟慮のうえで参加してのみ実現する。すなわち,われわれ自身による認識が不可欠だ。もし道徳の法則にかんする科学が誤ったものであれば,われわれは善を欲しながら悪をなすであろう。その科学が不完全なものであれば,われわれの社会進歩にしばらくは不具合がなくても,長期的にはわれわれに道を誤らせ,最終的にはわれわれを災禍の淵に投げ落とすであろう。
そこで,われわれにはより高度の知識が不可欠となる。人類の名誉のために言っておけば,そういう知識が皆無だった時代はない。しかし,古い偏見と新しい思想が激戦を始めるのは,まさに今日である。動乱と苦悩の日々が始まったのだ。ひとびとは,いまと同じ信条,いまと同じ制度のもとでみんなが幸せに思えた時代を懐かしむ。どうしてこの信条が非難されねばならないのか。どうしたこの制度が廃止されねばならないのか。ひとびとは,あの幸福な時代こそ社会が隠す悪の原理を助長させたことを理解しようとしない。ひとびとは,人間を責め,神を責め,地球のエネルギー,自然の力を責める。悪の原因を自分の理性や心情には求めない。人は自分の主人,自分のライバル,自分の隣人,自分の行為を責める。諸国民は,多数の人口減少によって均衡が回復するまで,そして戦士の遺骨によって平和が戻るまで,互いに武装し合い,殺し合い,根絶やし合う。先祖伝来の習慣に手をつけることや,町の開祖がつくり何百年も墨守されてきた法律を改めることを,人類はひどく恐れる。
《旧来の習慣の変更はすべて無価値。いかなる革新も警戒せよ》と,ティトゥス・リウィウスも言う。人間は何も変えない方がいいかもしれない。しかし,どうだ。無知として生まれ,だんだんとものを知るようになるのが人間の条件なら,人間は勉学を否定すべきか。理性を捨てて,運命に身を委ねるべきか。病気の治りかけよりも全快の方がよいならば,病気の治癒を拒むべきか。改革せよ、改革せよ。かつて洗礼者ヨハネもイエス・キリストもそう叫んだ。改革せよ,改革せよ。五十年前に,われわれの父たちもそう叫んだ。われわれもこれからずっと叫ぼう。改革せよ。改革せよ。
私は今日におけるひとびとの苦しみを知る者として,自分にこう言った。社会が拠って立つ原理のうちに,社会が理解しない原理がひとつある。それを知らないから社会はさらに腐敗する。この原理があらゆる悪の原因である。この原理は最古の原理である。なぜなら最新の原理を押しやり,古い原理を尊重することこそがこれまでの革命の本質だからである。われわれの無知がつくりだしたこの原理は,称賛され,望まれる。望まれるものであるからこそ,人をあざむき,影響を及ぼすのである。
しかし,この原理は目的においては正しいが,われわれの理解の仕方によって誤る。この原理は人類と同じぐらい古い。その原理とはいったい何なのか。それは宗教なのだろうか。
人はみな神を信じている。このドグマはひとびとの意識と同時に,ひとびとの理性に属する。人類にとって神は,われわれの悟性にとっての原因・実質・時間・空間といったカテゴリーの観念と同じくらい原初的な事実であり,不可避の観念であり,不可欠の原理である。太陽の存在が物理学のあらゆる推論よりも先に感覚によって確証されているのと同様,神の存在は精神のあらゆる推論よりも先に意識によって確証されている。観察と経験はわれわれに現象と法則を発見させるが,われわれに存在を知らせるのは内奥の感覚のみである。よろしい。人類は神の存在を信じている。だが,神の存在を信じることによって,人類は何を信じているのか。一言でいうなら,神とは何であるか。
神という観念,人類において生得的で原始的で斉一的なこの観念を,人間の理性はいまだ確定するにいたっていない。われわれが自然の認識および種々の原因についての認識を前進させるその一歩ごとに,神の観念はさらに拡がり,さらに高まる。科学が進歩するにつれて,神はさらに大きなもの,さらに遠いものに見えてくる。神人同形論と偶像崇拝は精神の幼さゆえの必然的な帰結であり,幼児と詩人の神学であった。それを行動の原則にしようと思わず,意見の自由を尊重することができたならば,それはほほえましい誤りであったろう。しかし,人間は自分の姿に似せて神をつくり,さらにそれをわがものにしようとした。人間は神の姿を歪めるだけでは満足せず,神を自分の遺産,自分の私財,自分の私物として扱った。神はしばしば奇怪な姿であらわされながら,いたるところで人間および国家の所有物となった。これが宗教によってもたらされる風習の堕落の起源であり,敬虔な憎悪と聖なる戦争の源であった。
ありがたいことに,われわれは信仰を各人の自由とすることを学んだ。道徳の規準も宗教の外に求める。神の本性や属性,神学の教義,魂の行方について裁定を下すために,われわれは賢明にも科学の教えを待っている。われわれが斥けるべきもの,われわれが信じるべきもの,それは科学が教えてくれるはずだ。神,霊魂,宗教,これらはわれわれを虜にする考察の,そしてわれわれを苛む迷いの,永遠の対象である。この恐るべき問題の解決は,これまでずっと試みられながら,ずっと不完全なままである。今日においても,われわれはこの問題で誤っているかもしれない。しかし,少なくとも今日では誤っても何の影響もない。信教の自由,教権と俗権の分離によって,宗教の考え方が社会の歩みにおよぼす影響はまったくなくなった。法律,政治制度,民事機構に宗教はまったく関与しない。
なるほど,宗教的な義務が顧みられなくなると,社会全体の堕落が進むかもしれない。しかし,それは絶対的な原因ではなく,派生的な結果にすぎない。この見解はとりわけ,われわれがいま取り組もうとしている問題にかんして,決定的に重要である。ひとびとの生活条件の不平等,貧困,社会全体の苦悩,政府の苦労,われわれはこれらの原因をもはや宗教に結びつけることができない。われわれはもっと遠くへさかのぼらねばならない。もっと深く掘り下げねばならない。
だが,宗教的感情よりももっと古く,もっと根深いものが人間のうちに存在するだろうか。
人間そのものが存在する。すなわち,永遠に対立しあう欲望と良心,自由意志と規範が存在する。人間は自分自身と戦うのである。なぜか。
神学者たちは言う。「人間はそもそも初めに罪を犯した。人類は太古の不正ゆえに罪がある。その罪のせいで神の恩寵を失った。過誤と無知が人間の特性となった。歴史の書物を読めば,いたるところで諸民族を永続的な貧困のうちにおく悪の必然性が証明されている。人間はいまも苦しみ,これからも苦しみつづける。その病は遺伝し,人間の体質になっている。一時的な抑制剤を飲んでも、緩和剤を飲んでも,苦しみはとれない」
こうした言い方は神学者だけのものではない。絶対的な完全主義者である唯物論哲学者たちの著作のなかにも同様の言葉づかいが見られる。デステュット・ド・トラシなどは,貧困・犯罪・戦争がわれわれの社会を成り立たせる不可欠の条件であり,反抗するのも愚かな必要悪であると公言する。つまり,〈悪の必然性〉と〈本源的な邪悪さ〉を説く点で,根底では同じ哲学なのである。
「最初の人間が罪を犯した」。聖書の信奉者がこれを忠実に解釈したら,こう言い換えるだろう。《人間はまず最初に過ちを犯す》,すなわち,間違いを犯す。〈罪〉も〈過ち〉も〈間違い〉も,みな同じことだからである。
「アダムが犯した罪の報いを,人類は脈々と受け継ぐ。第一の報いは,無知である」。たしかに,無知は個人においても人類においても初源的である。しかし,道徳や政治を含め,多くの問題について人類の無知は癒された。無知は絶対に治らないと誰が言えよう。真理をめざして人類の進歩は続く。闇に対して光はたえず勝利する。したがって,われわれにおける悪は絶対に不治のものではない。神学者による説明は不十分というより滑稽である。彼らの説明は「人間は間違うがゆえに間違う」というだけで,それは単なるトートロジーだ。むしろ「人間は学習するがゆえに間違う」と言わねばならない。もしも人間が知るべきことをすべて知ってしまったなら,人はもはや間違うこともないから苦しむこともないはずだ。
人間の心に刻まれているとされる規範について、偉い先生方に尋ねてみると,この先生方は自分が知りもしないことを論じていることがすぐにわかる。もっとも重要な問題についても,ほとんど論者の数だけ異なる見解がある。最良の政府の形態,権威の原理,法の本質について,同じ意見の者は二人と見出せない。誰もが,自分では多少まっとうな理由と思える私的な直感にたよって,はてしない大海原をあてもなく航行している。われわれはこうした相矛盾する意見のごった煮を眺めながら,こう言おう。「われわれの研究の目的は法則であり,社会の原理の確定である。しかるに,政治家すなわち社会科学を本分とするひとびとは意見が一致しない。したがって,誤りは彼らにある。また,誤りはすべて客体として実在するので,真理はまさに彼らの著作のなかに見出されるはずだ。彼らは無自覚のまま,そこで真理を語るだろう」
ところで,法学者や評論家は何を論じあっているか。〈正義〉・〈公正〉・〈自由〉・〈自然法〉・〈民法〉等々についてである。では,正義とは何か。その原理,その性格,その公式は何か。この問いに偉い先生方が何も答えられないのは明白だ。答えられるのであれば,彼らの科学は明快で確かな原理から出発し,おなじみの蓋然論を脱しているはずだからである。そして,すべての論争が終っているはずだからである。
正義とは何か。神学者はこう答える。《正義はすべて神に由来する》。この答えは正しい。しかし,何も学ぶところがない。
哲学者たちならもう少し学があるはずだ。かれらは正と不正について盛んに論じてきたからである。しかし,あいにくながら,調べてみると彼らの学識もほとんどゼロに近い。太陽に向かって《オー》と言いながら祈った未開人とたいして変わらない。《オー》は称賛,愛,熱狂の叫びだ。が,太陽の正体を知りたいと思う者にとっては,《オー》という感嘆詞を聞かされたところで何も明らかにはならない。まさしく哲学者は正義に向かって感嘆詞をもらしたにすぎない。哲学者によれば,正義とは《天国の娘》,《この世に生まれたすべての人間を導く光》,《人間の本性のもっとも美しい特質》,《人間を動物と区別し,人間を神に近づけるもの》云々と続く。この長々としたお題目をちぢめて言えばどうなるか。それは未開人の祈りの言葉,《オー》になってしまう。
人間の知性が正義にかんして示した,もっとも理にかなう教訓は,つぎの有名な金言に凝縮される。《自分がしてもらいたいことは人にもしてあげなさい。自分がしてほしくないことは人にもしてはいけません》。しかし,実践道徳のこの規範は科学にとっては無意味である。私は,自分がしてもらいたいとか,してほしくないとか求める権利をもっているだろうか。この権利が何であるかを説明しないかぎり,私の義務は私の権利にひとしいと言ったところで、何の意味もない。
さて,議論をもっと正確に,もっと実証的なやり方で進めよう。
正義は,社会を統べる中心の星,政治の世界の回転軸,すべての取引の原理・基準である。ひとびとの間では〈権利〉がなければ何ごともなされず,正義をよりどころにしなければ何もできない。正義とは法律の執行ではない。法律は,逆に,ひとびとが利害関係をもつすべての状況において〈正しいこと〉を宣言し適用することにほかならない。したがって,われわれが抱く正義や権利の観念がきちんとしたものでなく,不完全な,あるいは誤ったものであるならば,われわれがおこなう法の執行はすべて不適切,われわれの制度は不備だらけ,われわれの政治は間違い続きだろう。そして,社会には混乱と悪がはびこるだろう。
正義の変質はわれわれの悟性のなかで起こり,またその必然的な結果としてわれわれの行動のなかで起こる――この仮説は,つぎのことによって事実として証明される。すなわち,正義の概念とその適用にかんしてひとびとの意見はたえず変わり,それぞれの時代ごとに修正されてきた。つまり,観念も進歩してきた。これは歴史がきわめて明白な証拠をそろえてわれわれに突きつけている事実である。
いまから一八〇〇年前,世界はカエサルの保護の下,奴隷制と迷信と享楽のうちに衰退した。民衆は,延々続く酒宴で酔い痴れ,権利と義務の観念までも失った。戦争と乱痴気騒ぎが交代でひとびとの命を奪った。高利,および奴隷という名の機械の使用は,ひとびとから生活の手段を奪い,かれらの再生産を阻害した。この大規模な退廃から野蛮状態が醜悪な形で再生し,すさまじい伝染病のように過疎の地方にまで拡がった。賢者たちは帝国の終焉を予見したが,その救済策は知らなかった。じっさい彼らは何を想像できただろう。この古ぼけた社会を救済するには,民衆のあいだの尊敬と崇拝の対象を変更し,千年以上前からの正義によって認められてきた諸権利を廃止しなければならなかった。ひとびとはこう言っていた。「ローマはその政治とその神々によって勝利した。その宗教と公共の精神を改めようとするのは狂気のさたであり,冒涜的であろう。ローマは自分が征服した民族には寛大で,鎖につなぐが生命は奪わない。奴隷はローマの富のもっとも豊かな源泉である。民族解放はローマの権利の否定であり,財政の崩壊である。最終的にローマは法悦に浸り,世界中からの戦利品に埋もれ,勝利と統治を満喫する。贅沢と快楽は征服の報償である。ローマは後に退くことも放棄することもできない」。このようにローマは事実も権利も味方にしていた。ローマの主張はあらゆる慣習によって,また国際法によって正当化された。宗教における偶像崇拝,国家における奴隷制,私生活における快楽主義,これがローマの諸制度の土台を形づくる。そこに手をつければ,社会を根底から揺るがすことになる。今風の言い方をすれば,革命の深淵を開くことになる。したがって,そんな考えは誰の心にも浮かばなかった。にもかかわらず,人類は流血と淫蕩によって死にかけていた。
突然,ひとりの男が〈神の言葉〉を語ると言いながら現れた。彼は何者なのか,どこから来たのか,誰から教えを受けたのか,それは今日でも不明なままである。彼はいたるところへ出向いて,こう告げた。この社会はまもなく滅びる。この世界は一新される。聖職者は邪悪,弁護士は無知,哲学者は偽善者で嘘つきである。主人と奴隷は平等である。高利貸およびその類似行為はすべて盗みである。財産家と遊び人はいつか焼け死に,貧しい人,心清らかな人は安息の地を得るだろう。男はこのように驚くべきことを他にも沢山語っている。
〈神の言葉〉を語るこの男は,公共の敵として告発され、逮捕された。告発したのは祭司や律法家である。彼らはこの男の死刑を民衆自身に要求させる秘訣すら心得ていた。しかし,彼らの犯罪のとどめともいうべきこの合法的な殺人も,〈神の言葉〉の語り手が広めた教えを圧殺することはできなかった。男の死後,最初の信者たちが各地に散らばって,彼らのいわゆる〈善い知らせ〉を伝えて回る。これがさらに数百万の宣教者を生んだ。こうして,彼らの事業が完成したかに見えたとき,彼らはローマ側の正義の剣によって殺される。この不屈の布教活動,迫害者と殉教者との戦いは約三百年続き,最後には全世界が改宗する。偶像崇拝はなくなり,奴隷制は廃止され,乱れた風俗から厳しい道徳生活に変わった。富にたいする軽蔑はときとして富の剥奪にいたる。社会は自らの原理の否定によって,宗教の転覆によって,そしてもっとも神聖な権利の侵害によって救われたのである。この革命のなかで正義の観念は,それまで思いも及ばなかった範囲まで拡がった。しかも,そこからけっして後戻りしない。正義は,かつては主人のためにのみ存在した(*)。それがそのとき以来,正義は下僕たちのために存在し始めたのである。
(*)宗教・法律・結婚は自由民の,しかも最初は貴族のみの特権であった。[ラテン語で]ディイ・マヨルム・ゲンティウムとは,高貴なる人間のための神々の意。ユス・ゲンティウムとは,人間の法律,すなわち貴族の法律。奴隷と平民は家族をつくれなかったのである。彼らの子どもは,動物の繁殖と同様に見なされた。彼らは〈獣〉として生まれ,〈獣〉として生きなければならなかった。
しかし,新しい宗教は本来の成果をすべてもたらすにはほど遠かった。たしかに公共の道徳はいくらか改善され,抑圧もいくらか緩和された。けれども,〈人の子がまいた種〉は偶像崇拝者たちの心に落ちると,詩まがいの矛盾だらけの神話しか生まなかった。ひとびとは〈神の言葉〉の語り手が提起した道徳や政治の諸原理の実際的な帰結については心を向けない。ひとびとは彼の出生,血筋,性格,行動についてのみ思弁にふける。彼のたとえ話にけちをつける。解決不能の問題や自分が理解できない文言について,とっぴな意見を出しあって言い争う。ここから生まれたのが〈神学〉である。したがって,それは〈限りない不条理の科学〉と定義することができる。
〈キリスト教の〉真理は,使徒の時代を超えて生き残ることはできなかった。〈福音書〉は,ギリシアやラテンのひとびとによって注釈され,象徴として解され,異教の寓話をつめこまれ,文字どおり矛盾のしるしと化した。そして今日にいたるまで,〈無謬の教会〉による支配は暗黒の長さをあらわすものにすぎない。一説に,〈地獄の門〉の脅しは続かず,いつか〈神の言葉〉の語り手が再来し,やがて人間たちは真理と正義を知るであろう,という。しかし,それはギリシア・ローマのカトリシズムが終わるときであろう。そして,科学の光で世論から幻影が消えるときであろう。
使徒の後継者らが必死に打ち負かそうとした怪物たちは,いったんはひるんだものの,愚かな狂信のおかげで,またときには聖職者や神学者の意図的な加担のおかげで,少しずつまた姿を現した。フランスにおけるコミューン解放の歴史は,国王・貴族・僧侶そろっての抑圧にもかかわらず,民衆のあいだでたえず正義と自由が育っていたことを示す。キリスト生誕から一七八九年目の年,身分制のもとで抑圧されていた貧しいフランス国民は,王の絶対主義,領主および高等法院の専横,そして聖職者の不寛容の三つの網のなかでもがいていた。王の権利と僧侶の権利があり,貴族の権利と平民の権利があった。出生,地方,都市,同業組合,職業のそれぞれに伴う特権があった。これらすべての根底に暴力,不道徳,貧困があった。いつからか改革が話題になっていく。改革をもっとも求めているように見える連中は,ただ私利を追求しているだけだ。利益をすべてわがものにできるはずの民衆は,たいしたことを期待せず,ものも語らない。この貧しい民衆は長い間に,疑心や不信や絶望から,自分の権利をすなおに語れなくなっている。服従する習慣のせいで,中世にはあれほど誇り高かったコミューンから勇気が奪われたのだとされた。
そのとき,一冊の本が現れた。その本の内容はつぎの二つの命題に要約される。《第三身分とは何か。無である》。――《それは何であるべきか。すべてである》。そこに誰かが一行コメントをつけくわえた。《王とは何か。国民の代理人である》
これはあたかも突然の啓示であった。巨大なベールが引き裂かれ,みんなの目から分厚い目隠しが取れた。民衆は推論し始める。
- 王がわれわれの代理人だとすれば,王は報告する義務がある。
- 報告が義務ならば,チェックも受ける。
- チェックを受ける者は,責任も問われる。
- 責任があれば,処罰も受ける。
- 罰の重さは,その功罪による。
- 罪の程度によって罰されるならば,死刑もありうる。
このシエイエスの本が出版されて五年後,第三身分はすべてになっていた。王,貴族,僧侶は無になっていた。一七九三年,民衆は,主権者の不可侵性という憲法上のフィクションにひるまず,ルイ十六世を死刑台に引き立てた。一八三〇年,民衆はシャルル十世をシェルブールで見送った。いずれの場合においても,民衆は王の罪状の評価を誤ったかもしれないが,それは現実の面での誤りである。理論の面では,民衆を行動に駆りたてたロジックに非はない。七月王制は[一八三六年に]ストラスブールで反乱を起こしたルイ・ボナパルトを何ら処分しなかったことで非難されるが,民衆は主権者を罰することによって,まさになすべきことをなしている。すなわち,真の罪人を叩いている。それは一般法の適用であり,刑罰にかんする正義の厳粛な裁断である(*)。
(*)行政権の長が責任を負うなら,議員もまた責任を負うべきである。いままで誰もこの考え方にいたらなかったのは,驚くべきことである。それはちょっとした論文のテーマにもなりうるだろう。しかし,言っておくが,私は何の理由もなくその考え方を支持したいのではない。民衆はいまでも十分論理的だから,一定の結論を出すための材料を私が提供するまでもないのだ。
一七八九年の運動の原動力となった精神は,矛盾の精神であった。それはつぎのことがらによって十分証明される。旧制度に取って代えられた体制は,そもそも何ら体系性がなく,熟慮されたものでもなかった。それは憤りと憎悪から生まれたものであり,観察と研究にもとづく科学のような成果はもたらしえなかった。一言で言えば,その根底は自然と社会の諸法則についての深い認識から引き出されたものではなかった。さて,われわれがいま,いわゆる新制度のなかで目撃するのは,共和制がこれまで打倒しようと闘ってきた諸原理に屈している姿,かねて一掃を企てたあらゆる偏見によって振り回されている姿である。ひとびとは,少し軽いが熱っぽく,フランス革命の栄光を語り,一七八九年の再生を語り,行うべき大改革や制度の入れ替えについて語る。どれもが虚構,虚構だ。
物的,知的,あるいは社会的な事実について観察してみて,われわれの考え方がすっかり変わっているとき,私はこの精神の運動を〈革命〉と呼ぶ。考え方がたんに拡がっただけ,あるいは修正されただけなら,それは〈進歩〉である。たとえば天文学において,プトレマイオスの説は進歩であり,コペルニクスの説は革命であった。同じ要領で一七八九年を眺めてみると,そこには戦闘と進歩があっても,革命は存在しなかった。当時試みられた諸改革を検証すれば,そのことは証明される。
民衆は,きわめて長いあいだ君主のエゴイズムの犠牲であったが,自分たちこそが主権者であると宣言しさえすれば,それから解放されるものと信じた。しかし,君主制とは何か。一人の人間の主権だ。民主主義とは何か。民衆の主権,もっと正確に言えば,国民の大多数の主権である。しかし,法の主権でなく人間の主権が,理性の主権でなく意志の主権がはびこる点では同じだ。権利でなく情念が支配する。たしかに,民衆が君主制から民主制に移るときには,進歩がある。主権者の数が増えれば,理性が意志にとってかわるチャンスも増えるからである。だが,けっきょくのところ,政府において革命は存在しない。なぜなら原理は同一のままだからである。それは今日のありさまを見ればわかる。もっとも完全な民主主義をもってしても,ひとびとは自由ではありえない(*)。
(*)トックヴィル『アメリカにおけるデモクラシー』やミシェル・シュヴァリエ『北アメリカにかんする手紙』を参照されたい。また,プルタルコス『ペリクレスの生涯』によれば,アテネの貴族たちは僭王の野心ありと見なされるのを恐れて,学問が趣味のふりをせざるをえなかった。
そればかりではない。民衆=王は自分だけでは主権を行使できない。代理人に委任せざるをえない。これは,民衆の支持をたくみに得ようと企む連中がしきりに繰り返している主張である。では,代理人の数は五人なのか,十人,百人,千人なのか。いや,数の問題ではない。名称もどうだっていい。それはどうしても人間による統治であり,恣意的な専制となる。私は,いわゆるあの革命が何を革命したのかを問いたい。
また,周知のとおり,この主権はまず国民公会によって行使され,それから総裁政府の手に渡り,後には執政によって横領された。民衆にかくも愛され,かくも惜しまれた強者である皇帝[ナポレオン]の場合,民衆にしたがう意志などさらさらなかった。それどころか,人民主権への軽蔑を見せつけたいかのように,あえて国民投票を実施し,民衆の自己放棄,すなわち譲渡すべからざる人民主権の自主的な放棄を求め,それを獲得した。
しかし,けっきょくのところ,主権とは何なのか。それは〈法律を制定する権利〉だといわれる(*)。これもまたバカげた話だ。独裁政治のまねである。民衆は王たちが《かくのごときが朕の意志なり》の決まり文句で勅令を出すのを見てきた。だから,自分でも法律を制定して同じ楽しみを味わいたいと思った。こうして五十年来,無数の法律がつくられた。もちろん,それはつねに代表者たちの手による。お楽しみはまだまだ終わりそうにない。
(*)トゥーリエによれば「主権とは人間の全能である」。唯物論的な定義である。もし主権がなにものかであるならば,それは〈力〉や〈能力〉ではなく〈権利〉である。では,人間の全能とは何か。
さて,主権の定義はそもそも法律の定義に由来する。法律は《主権者の意志の表現》であるとされた。それにしたがえば,君主制のもとでは法律は王の意志の表現であり,共和制のもとでは民衆の意志の表現である。意志の数を別にすれば,この二つの体制はまったく同一である。また,どちらも誤っている点で等しい。すなわち,法律は事実の表現でなければならないのに,意志の表現になっている。ただ,民衆には良いガイドがついた。ひとびとはジュネーブの市民[ルソー]を預言者とし,『社会契約論』を聖典とした。
新しい立法者たちのレトリックからは,先入観と偏見がじんわりと滲み出る。民衆はそれまでさまざまの排除と特権に苦しめられてきたので,彼らの代表者たちは民衆のためにこう宣言した。《すべての人間は生まれながらにして,また法律の前で平等である》。曖昧で,かつ冗長な宣言である。《生まれながらにして平等》とは,人間がみな同じ身長,同じ美くしさ,同じ天分,同じ力を備えるということか。それはありえない。ここでいう平等とは,政治的・市民的な平等である。ならば,こう言えば十分であった。《すべての人間は法律の前で平等である》
では,法律の前の平等とは何か。一七九〇年の憲法も,一七九三年の憲法も,[一八一四年に]王が授けた憲章も,[一八三〇年に]王が受け入れた憲章も,それを定義することができなかった。それらのすべてで財産と地位の不平等が前提とされ,権利の平等など気配すら見出せない。この点で,これまでのフランスの憲法はことごとく民衆の意志を忠実に表現したものであったといえる。それを証明してみよう。
かつて民衆は行政職および軍務から排除されていた。だから,人権宣言につぎの仰々しい条文を挿入したことで、民衆は大偉業をなしたと信じた。「すべての市民は,等しくさまざまの職業に就くことができる。自由な人民は,選ばれるにあたって自らの徳性と才能以外の理由を認めない」
たしかにたいそう立派なことだから賞賛したのだ。民衆は愚行を賞賛したのである。何たること。主権者にして立法者,かつ改革者である民衆は,公務を特別収入の源としか見なかった。はっきり言えば,おいしい儲け口。公務は利益の源泉と思われたからこそ,市民の採用基準が定められたのである。そこに利益も何もなければ,そんな用心は不要だ。天文学者か地理学者しか水先案内人になれないとか,どもる人は悲劇やオペラを演じてはいけないとか,ほとんどの人はそんな決まりをつくろうと思わない。民衆はここでも王の猿まねをする。民衆は王をまねて,実入りの多いポジションを自分の友人やおべっか使いに与えたがった。あいにくながら,そしてまたこの点で両者の類似は完成するのだが,儲けの割り振り表をもっているのは民衆ではなく,民衆の代理人や代表者なのである。一方,この連中もお人好しな主権者のご機嫌を損ねないよう気をつけた。
人権宣言のあのご大層な箇条は,一八一四年および一八三〇年の憲章にも引き継がれたが,内容は市民のさまざまの不平等を前提とする。それは法律の前の不平等にまで行き着く。すなわち,地位の不平等が存在する。公務は尊敬と報酬が得られるからこそ求められた。そして,財産の不平等が存在する。財産の平等が求められても,公務は報償ではなく義務であった。また,処遇の不平等が存在する。法律は〈徳性と才能〉をどう解すべきか定めていないからである。帝政の下では,徳性と才能は軍人としての勇気および皇帝への献身にほかならなかった。ナポレオンが新しくつくった貴族制を以前の貴族制と合体させようとしたときに,それは表面化した。今日では,二百フランの税金を払う人が徳の高い人であり,才能のある人とは正直なスリのことである。これはもはや自明の真実である。
最後に,民衆は所有を神聖なものとした。……神よ、許し給え,それは彼らの無知による所業だからである。彼らは五十年来,あわれな愚行の報いを受けている。しかし,民の声は神の声だといわれ,その良心は過つことがないといわれる民衆が,どうして間違ったのか。民衆は,自由と平等を求めながら,どうしてふたたび特権と隷属の世界に陥ったのか。理由はやはり同じく,旧体制を模倣したからである。
かつて貴族と僧侶は,ただ自発的な援助および無償の贈与の形で,国家経費の負担にかかわった。彼らの財産は負債の場合でさえ差し押さえが禁じられていた。一方,平民は人頭税や賦役で悩まされ,国王や領主や僧侶がさしむける収税吏にのべつ苦しめられていた。農奴は物と同列に置かれ,遺言することも相続人になることもできなかった。農奴は家畜と同様に見なされ,その使役もその子供も従物取得権によって主人のものとなった。そこで民衆が望んだのは,〈所有〉の条件が誰にとっても同一であること,そして各自が《その財産,その収入,その労働と努力の成果を自由に享受し処分》できることである。民衆は自分なりの所有を発明したわけではない。ただ民衆は,所有にかんして貴族や僧侶と同じ資格をもたなかったので,その権利は一律であるべしと宣言しただけである。なるほど,酷使とか人間の物扱い,人間の支配や排除など,非人間的な形の所有は消滅した。また享受の仕方も変わった。しかし,ものごとの根底は不変のままである。たしかに権利の配分については進歩があった。しかし,革命はなかった。
さて,つぎの三つは近代社会の基本原理として,一七八九年の運動とその後の一八三〇年の運動で確立されたものである。(一)〈人間の意志の至高性)と,短く言えば〈専制),(二)〈財産と地位の不平等〉,(三)〈所有〉。これらが,つねに主権者・貴族・所有者の守護神として万人が認める【正義】の上に確立した。【正義】とは,あらゆる社会の普遍的で根源的で絶対的な法則のはずだ。
では,〈専制〉や〈市民的不平等〉や〈所有〉という概念は,〈正しい〉という根源的な観念に合致するのか,しないのか。また,それらの概念は,状況や場所や人間関係に応じてさまざまに表される〈正しい〉の観念から必然的に演繹されるものなのか。それともむしろ,雑多なものの混合,避けがたい観念連合の不当な所産なのか。これを知ることが重要である。正義がとりわけ云々されるのは,政府のあり方,人間のあり方,物の所有においてである。ならば,いかなる条件のもとで政府は正しく,市民のあり方は正しく,物の所有は正しいかを,万人の同意と人間精神の進歩にしたがって探求しなければならない。そして,この条件を満たさないものをすべてを除外すると,その結果,つぎのことが一挙に明らかとなろう。すなわち,まっとうな政府とは何か。まっとうな市民のあり方とは何か。物のまっとうな所有とは何か。そして最後に,この分析の究極的な表現として,正義とは何か。
人間が人間にたいして権威をもつことは正しいか。
この問いには万人がノーと答える。人間の権威とは法律の権威にほかならない。そして,法律の中身は正義と真実でなければならない。私的な意志は統治においては無視される。統治とはつまるところ,法律をつくるために正義と真実を発見することであり,同時にこの法律の執行を監督することである。――われわれの立憲政治の形態ははたしてこれらの条件を満たしているだろうか。たとえば,大臣の意志が法律の布告や解釈に混入していないだろうか。代議士たちは議論において,数よりも理屈で勝つことを心がけているだろうか。こういうことについて,いまここでは検証しない。私はただ,私が定義したような統治こそ,みなが良い統治と認めるものであると言うにとどめる。それはともかく,われわれはつぎのような歴史も知っている。東方のひとびとにとっては,彼らの主権者の専制のみが正しいと思われた。古代のひとびとにとっては,また当時の哲学者の意見においても,奴隷制は正しいものだった。中世においては,貴族も神父も司教も,農奴の存在を正しいと考えた。ルイ十四世は「朕は国家なり」と言い放ちながら,自分は正しいと考えていた。ナポレオンは,彼の意志への不服従を国家犯罪と見なした。このように,主権や統治にかんして,何が〈正しい〉か,その考え方はつねに今日と同様だったわけではない。それはたえず発展し,しだいに明確になり,そしてついに今日の段階にきて留まっているのである。それは最終局面に達したのだろうか。私はそうは思わない。統治における改革を完成し,革命を成し遂げるために,われわれが打ち克つべき最後の障害が残されている。その障害はわれわれが保存してきた所有の制度のみに属する。したがって,われわれはまさしくこの制度そのものを攻撃しなければならない。
政治的・市民的不平等は正しいか。
この問いに、ある者はイエス,ある者はノーと答える。イエスと答えた者に私は言いたい。民衆が出生と階級の特権をすべて廃止したとき,諸君はそれを良いことだと思った。おそらく自分にとって利益があるからだろう。では,なぜ地位や人種の特権の消滅と同時に財産の特権の消滅を望まないのか。諸君が言うに,所有には政治的不平等がつきものだが,所有がなければ社会は存在しえない。とすれば,われわれが提起した問題は,所有の問題において解決される。――ノーと答えた者には,私はただこう言いたい。政治的な平等を享受したいなら,所有を廃止せよ。でなければ,不平は言うな。
所有は正しいか。
この問いには誰もがためらうことなく,イエス,所有は正しいと答える。しかし,私はみんなに言いたい。いままで誰もが十分な知識をもたずにイエスと答えているようだ。私の答えはノーである。きちんとした理由をもって答えるのはけっして容易なことではない。経験と時間のみが解答を導きうる。いま,その解答はすでに与えられている。それを理解するのがわれわれの仕事だ。それを証明してみよう。
証明はつぎの手順で行われる。
【T】
言い争いはしない。反駁もしない。何も否定しない。所有を擁護するために持ち出された理由をすべて受け入れる。われわれはただ所有の原理を探求する。ただし,所有がこの原理を忠実に表現しているかどうかは確かめる。じっさい,所有は正しいものとして擁護されているのであるから,あらゆる所有擁護論の根底にかならず正義の思想,あるいは少なくとも正義の意図が見出されるはずである。また他方,所有は物質として感知されるもののみを領分とするから,正義はここでそれ自体,いわばひそかに物質化され,まったく代数的な姿で現れてくるはずである。われわれはこうした検証方法によって,所有擁護のために考えだされたあらゆる理屈が〈ことごとく〉常にまた必然的に,平等すなわち所有の否定という結論に向かうことをやがて知るであろう。
この最初の部分は二つの章にわかれる。ひとつは,われわれの権利の基礎としての先占に関する章。もうひとつは,所有および社会的不平等の原因とみなされる労働と才能に関する章。
この二つの章の結論はこうなるだろう。ひとつ,先占の権利は所有を〈妨げる〉。ひとつ,労働の権利は所有を〈破壊する〉。
【U】
所有は必然的に平等と関係づけられてのみ理解されるものであるから,われわれは,論理必然的に存在してしかるべき平等がなぜ存在しないのかを探求しなければならない。この新たな研究の部分もまた二つの章にわかれる。初めの章では,所有の事実それ自体を考察しながら,この事実は現実であるのか,存在するのか,存在しうるのかを探求する。というのも,所有は,対立し合う二つの社会主義の形態,すなわち平等と不平等をともに可能とする矛盾を内包しているからである。われわれはここでじつに奇妙なことがらを発見するであろう。所有はじっさいのところ偶然に現れることはありうるが,制度および原理として所有は数学的に不可能なのである。《現実についてよりも可能性についての方が推論は確かである》というスコラ学派の公理は,所有に関するかぎり虚偽だとわかる。
そして最後の章では,心理学の助けをかりて人間性の奥底にわけいり,〈正しさ〉の原理・定式・性格をはっきりさせる。社会の有機的な法則を明らかにする。所有の起源,所有が成立した原因,長く存続している原因,やがて消滅する原因を説明する。所有と盗みの同一性を確証する。〈人間の主権〉,〈条件の不平等〉,〈所有〉という三つの偏見がじつはひとつであること,互いにもたれあい,入れ替わりうることを示す。それを済ませば,矛盾の原理によって,統治および権利の土台をそこから苦もなく引き出すことができるだろう。われわれの研究はそこで終わる。その続きはまた新たな論文で行おう。
われわれが取り組んでいるテーマの重要性は,誰もが認めるところである。
アンヌカン氏もこう述べている。「所有は市民社会を創造し存続させる原理である。……所有は新説が生まれがたい基本問題のひとつである。所有は社会秩序の原理なのか帰結なのか,原因なのか結果なのか,この問いに答えねばならない。人間の諸制度の道徳性,したがってまたその権威のすべてが,これにかかっている。それをけっして忘れてはならないし,評論家も政治家もそれをしっかり踏まえていなければならない」
この言葉は,希望と信念をいだくすべてのひとびとへの挑戦である。しかし,平等という大義がどれほど立派でも,所有の擁護者たちから投げつけられた手袋を拾い上げる者は誰もいない。挑戦を受けて立つ決意と勇気は,誰からも感じ取れない。威厳のある法律学がさしだす誤った知識や,所有をあがめる政治経済学のバカげた文言によって,もっとも豊かな知性の持ち主ですら迷わされている。民衆の利益と自由のもっとも頼もしい味方のあいだでさえ,《平等なんて幻想だ》というのが一種の合い言葉になっている。間違いだらけの理論ときわめて浅薄なアナロジーがあふれ,頭脳は優秀なのになぜか卑俗な偏見に囚われた人の心を支配している。しかし,平等は日々に前進する。《平等は生まれている》。自由の兵士たちよ,勝利の前夜にわれわれの旗を投げ捨てるのか。
私は平等の擁護者であるが,憎しみも憤りももたず,ただ哲学者にふさわしい独立心と,自由な人間にふさわしい冷静さと頑固さをもって語りたい。私は私の心に差し込んだ光を,この厳粛な闘いのなかで,すべての人の心に届けたい。そして,私の論証を成功させて,平等は剣では勝ち取れなくとも言論によって勝ち取れる,ということを示したい。
第二章 自然権とされる所有について——
所有の生成因とされる先占と民法について
用語の定義
ローマ法は所有をこう定義した。「法の理が許す範囲で,物を使用し,乱用する権利」。人はこの〈乱用〉という言葉を,けっして非常識で不道徳的な乱用でなく,単に権限の絶対性をあらわすものとして,正当化しようと努力した。所有を神聖化したいがためだが,むなしい配慮である。そんな配慮が,所有者の常軌を逸したふるまいの予防や抑制につながるはずもない。所有者は自分の果実をそのまま腐らせることができる。自分の畑に塩をまくことができる。自分の牛の乳を砂の上にこぼすことができる。葡萄畑を荒地に変え,野菜畑を公園にすることができる。これはすべて乱用ではないのか。所有される物について,使用と乱用はかならず混同される。
一七九三年憲法の冒頭に書かれた権利宣言によれば,所有とは「自分の財産,自分の所得,自分の労働や努力の成果を,享受し,自由に処分する権利」である。
ナポレオン法典の第五四四条によれば,「所有は,法律や規則で禁じられた使われ方でない限りにおいて,ものを絶対的に享受し,または処分する権利」である。
この二つの定義は,ローマ法による定義に帰着する。すなわち,いずれも物にたいする絶対的な権利を所有者に認めている。そして,ナポレオン法典が加えた《法律や規則で禁じられた使われ方でない限り》という制限にしても,それは所有を制限するためではない。それはただ一所有者の権利が他の所有者の権利を妨げてはならないというにすぎない。それは原則の確認にすぎず,制限といえるものではない。
所有にも区別がある。一 純然たる所有,物にたいする絶対的な領有権,あるいはいわゆる〈むきだしの所有〉。二 〈占有〉。デュラントンによれば,「占有は権利ではなく事実としてあるものである」。トゥーリエによれば,「所有はひとつの権利であり,合法的な権能であるが,占有はひとつの事実である」。借家人,小作人,合資会社経営者,用益権者は,占有者である。一方,物の使用権を貸与している持ち主や,用益権者が生きているかぎり物を享受できない相続人は,所有者である。あえて例えるならば,愛人は占有者であり,夫は所有者である。
領有および占有という,所有の二重の定義はじつはきわめて重要である。そして,われわれがこれから述べることを理解してもらうためにも,この腑分けが必要だ。
所有と占有の区別から二つの種類の権利が生じる。ひとつは,〈ユス・イン・レ〉[物権],すなわち物〈における〉権利。入手の仕方はどうであれ,自分が獲得した物の所有を主張できる権利。そしてもうひとつは,〈ユス・アド・レム〉[対物権],すなわち物〈に対する〉権利。自分がその物の所有者になることを要求できる権利。たとえば,夫婦が互いの人格にたいしてもつ権利は〈ユス・イン・レ〉であるが,婚約者それぞれがもつ権利はまだ〈ユス・アド・レム〉でしかない。前者においては占有と所有が結合しているが,後者はむきだしの所有を含むにすぎない。私は労働者という資格で,自然および勤労の財産を占有する権利をもつが,プロレタリアという境遇ゆえに,私はまったく何も享有しない。私が〈ユス・イン・レ〉への回帰を要求するのは,まさしく〈ユス・アド・レム〉によってである。
この〈ユス・イン・レ〉と〈ユス・アド・レム〉の区別は,かの有名な〈占有確認の訴訟〉と〈所有権確認の訴訟〉の区別の基礎である。この二つの訴訟はまことに法学のカテゴリーであり,すべてをその広大な領域に包摂する。〈所有権確認の訴訟〉は所有にかんするすべて,〈占有確認の訴訟〉は占有にかんするすべてを含む。私は,所有に反対する立場で本書を出して,いわば社会全体に所有権確認の訴訟を起こすのだ。いま物を持たないひとびとも,物を持つひとびとと同じ資格で所有権者である。それを私は証明する。いや,所有を万人に分割するのが私の結論ではない。私が求めるのは,全般的な保証という手段をとおして所有を全般的に廃止することである。
もしこの所有権確認の訴訟に負けたら,われわれ,プロレタリア諸君全員と私は,そろって喉を切るしかない。われわれはもはやどの国の法廷にも訴え出られなくなる。なぜなら,訴訟手続法第二十六条が断言しているように,〈所有権確認の訴訟〉を却下された場合,《原告はもはや占有確認の訴訟を起こすことも認められない》からである。反対に,もし私がこの訴訟に勝ったらどうか。そのときわれわれは,所有権のせいで奪われた財産をふたたび享受できるようにするために,あらためて占有確認の訴訟を起こさねばならない。そういう羽目にならないようにしたいが,訴訟手続法によれば,《占有確認の訴訟と所有権確認の訴訟はけっして併合されない》から,二つの訴訟を同時に起こすことはできないのである。
さて,問題の中心に向かう前に,いくつか予備的な考察をしておくのも無益ではあるまい。
第一節 自然権とされる所有について
人権宣言は所有を人間の不滅の自然権のひとつとした。自然権は〈自由〉,〈平等〉,〈所有〉,〈安全〉の四つを数える。一七九三年の立法者は,何らかの方法にしたがってその数を定めたのか。否である。彼らは主権や法律について語り合ったときと同様,ただ世間一般の見方や自分の意見にしたがって,原理を定めた。すべて手探りで,あるいはあっさりと決まった。
トゥーリエの言うことを信じるなら,「絶対的な権利は三つ,すなわち〈安全〉〈自由〉〈所有〉に要約できる」。このレンヌの先生は平等を除外している。なぜなのか。平等は〈自由〉に含まれるからか。〈所有〉が平等を認めないからか。『民法解説』の著者はそこでは沈黙する。そこにこそ論ずべき問題があることに,この先生は考えも及ばなかった。
しかし,三つであれ四つであれ,それらの権利をたがいに比べると,所有はまったく他と異なることがわかる。すなわち,所有は市民の大多数にとって単なる可能性としてしか存在しない。それは眠ったままの使われない能力にすぎない。他方,所有を享受するひとびとは,自然権の理念に反する妥協や修正を所有に施したりする。また,じっさいのところ政府も裁判所も法律も,所有を尊重しない。つまり,万人がこぞって自発的に所有を虚妄と見ているのである。
これに対し,自由は不可侵である。私は私の自由を売り渡すことも譲渡することもできない。自由の譲渡や停止を目的とする契約や契約条件は,すべて無効である。自由の地に足を踏み入れた奴隷は,その瞬間から自由となる。社会は犯罪者を捕らえ,彼の自由を奪うが,それは正当防衛にあたる。犯罪によって社会契約を破る人間は公共の敵と宣告される。他のひとびとの自由を侵害した人間は,当然の報いとして自分の自由を奪われる。自由は,人間が人間として存在する第一の条件なのである。自由を失うことは,人間の資格を失うに等しい。自由を失った人間に,はたして人間らしい行為ができるだろうか。
自由と並んで,法律の前の平等もまた,制限や例外を認めない。すべてのフランス人は等しく職に就くことができる。この平等のゆえに,職業選択の問題はたいていの場合,抽選や年功によって解決される。もっとも貧しい市民が,もっとも地位の高い人間を裁判所に出頭させ,償いをさせることもできる。金持ちのアハブがナボテのぶどう畑に宮殿を建てたことに対し[旧約聖書,列王記,上二一],その建築費がどれだけ巨額であっても,法廷はこの宮殿の解体を命ずることができる。元の状態のぶどう園に戻させ,加えて横領者に損害賠償を命ずることができる。法律は,合法的に獲得された所有が価値の大小に関係なく,また人による差別もなく尊重されることを求める。
たしかに,[一八三〇年]憲章はいくつかの政治的権利の行使に関して,一定の財産や能力を必要条件にしている。しかし,評論家の誰もが承知しているように,立法者の意図は特権を設けることではなく,保証を得ることであった。法律が定める条件を満たした市民はみな選挙権をもち,そして選挙権をもつ者はみな被選挙権ももつ。その権利は,いったん得られたら,それぞれの間で平等である。法律は,選挙において人を差別せず,一票の重みに差をつけない。そういうシステムが最良であるかどうか,私は今ここでは問わない。ただ,憲章の精神において,また万人の常識として,法律の前の平等は絶対である。そして,自由と同様,この平等もまたいっさい妥協の余地がないものである。今はこれだけ言えば十分だ。
さて,安全の権利についても同様である。社会はその構成員に対し,半分だけ保護するとかまあまあ防衛するなどとは言わない。市民が社会に責任を負うように,社会は市民に対し全面的に責任を負う。社会は市民に対し,費用がかからなければ保護してやるとか,こちらにリスクがなければ守ってやるなどとは言わない。社会は,何が来ようと,何に対しても必ずみなさんを守る,と言うはずだ。みなさんを助け出し,みなさんの恨みを晴らす。そうしなければ自分自身が滅びる,と言うはずだ。国家はその持てる力を市民ひとりひとりのために用いる。国家と市民がたがいに結びつきあう義務は絶対である。
ところが所有はまったく異なる。所有は誰もが欲しがるが,誰からも承認されない。法律,道徳,慣習,公共の良心,個人の良心,すべてが所有の死滅と崩壊にむけて結束する。
軍隊の維持費,公共事業費,公務員給与など,政府の出費をまかなうため租税が必要である。それは全員で負担するのが最善だ。しかし,なぜ金持ちは貧乏人よりも多く負担するのか。——金持ちの方が多く所有しているからだ,それは正しいことだ,と人は言う。——いや,私にはなぜそれが正しいことなのか理解できない。
なぜわれわれは租税を払うのか。それは各人に自由・平等・安全・所有という自然権の行使を保証するためである。国内の秩序を維持するためである。有益で快適な公共施設をつくるためである。
しかし,金持ちの生命と自由を守るための費用は,貧乏人のそれよりもたくさん必要か。侵略や飢饉やペスト流行のとき,大金持ちは国家による救助を待たずにさっさと逃げ出す。一方,労働者たちはボロ家に留まって,あらゆる災禍にさらされる。さて,より多くの面倒を起こすのはどっちだろう。
秩序を脅かす者が多いのは,善良なブルジョアの方か,それとも職人連中の方か。じっさい,警察に厄介をかけるのは,二十万人の有権者より,むしろ数百人の失業労働者の方である。
最後にもうひとつ,裕福な金利生活者は貧乏人よりも,国の祝祭や街路の清潔さやモニュメントの美しさを楽しんでいるだろうか。……これもそうではない。彼らは俗っぽい華々しさより自分の地所である田園の光景を好む。また,そもそも彼らは何かを楽しむために,ゲームの賞金を狙う必要もない。
二つにひとつである。課税を所得に比例させた上で高額納税者たちに特権を与え,それを保証するか。それとも,こうした課税そのものを不正とするか。なぜなら,一七九三年の宣言がいうように,所有が自然権のひとつであるならば,この権利によって私に属するものはすべて私の人格と同様に神聖だからである。それは私の血であり,私の命であり,私そのものである。それに手を出す者は私の瞳を傷つけるに等しい。私の十万フランの収入と貧しい女工の七十五サンチームの日給,また私の大邸宅と彼女の屋根裏部屋,どちらも同じく神聖不可侵である。税金は体力や身長や才能に応じて割り当てられるものでない。ましてや所有に応じての割り当てなどありえない。
したがって,もし国家が私からより多く取りあげたなら,国家はより多く私に返すべきである。そうしない国家はもはや権利の平等を語るべきではない。そうしない社会はもはや所有を守る体制ではなく,所有を破壊する体制である。累進課税によって,国家は盗賊団の親分となる。定期的に不当な金を巻きあげる悪党の模範となる。国家は,忌まわしい悪党どもや憎むべきごろつきたちを処刑しているが,それは同業者として相手を妬んでの所業だ。むしろ,国家自身が連中の頭目として,重罪裁判所のベンチに座らされねばならない。
しかし,と人は言う。まさにこうしたごろつきを抑えつけるために裁判所や兵隊が必要なのだ。政府は一種の会社だが,保険の会社ではない。この会社のしごとは保証ではなく,復讐であり,抑圧だからである。この会社に租税という名で支払う料金は,所有に比例して割り当てられる。すなわち,政府が金で雇った復讐者や抑圧者に,個々の所有がどれだけ面倒をお願いするかに比例する。
ここまで来ると,われわれは絶対的で譲渡不能な所有権からかなり遠いところにいる。じっさい,貧者と富者は相互不信で戦争の状態にある。しかし,なぜ戦争するのか。所有のためである。したがって,所有は所有のための戦争と必然的に相関する。……富者の自由と安全は貧者の自由と安全によって脅かされるものではない。それどころか,両者は相互に増進し,相互に支え合う。なのに,所有権の場合は逆だ。富者の所有権は,貧者の所有本能に対して常時の防衛が必要とされる。何という矛盾!
イギリスには救貧税というのがある。そういうものを払う必要があるのか。私がもつ不滅の自然権である所有と,数千万の貧者を苦しめている飢餓とのあいだに何の関係があるのか。同胞を助けよと命ずる場合,宗教は慈善の戒律を設けるが、立法を原則とはしない。慈善の義務は,キリスト教の道徳によって課せられるものであって,私の意に反して他者のための政治的権利を定めたり,まして物乞いの制度を定めたりするものではない。私も,そうすると気持ちがよければ,施しをしたい。また,他者の苦しみに同情を感じたならそうしたい。ただし,この同情とやらは哲学者がしきりに論じているものだが,私自身はほとんど信じていない。要するに,私は強制されるのが嫌なのだ。誰であれ,人はつぎの基準を逸脱するような強制は受けない。《他者の権利を侵害しない範囲において自己の権利を享受できる》。これはまさに自由の定義そのものである。さて,私の財産は私のものであり,いささかも他者に負うものではない。私は,キリスト教徒の第三の徳行[慈善]が日常のテーマとなることに反対する。
フランスでは,金利を五%に下げよと要求する声が大きい。これは所有の秩序全体を犠牲にする要求である。それが公共のために必要なら,ひとびとにはそれをする権利がある。しかし,憲章が約束した正当な〈前提としての補償〉はどこにある。そういうものはないどころか,補償そのものが不可能である。補償が,犠牲となった所有と同額ならば,金利の引き下げはやる意味がない。
今日の国家において金利生活者は,エドワード三世によって包囲されたカレー市の有力者たちと似たような状況にある。征服者イギリス人は,自分の望む形でカレー市が主要な市民を引き渡せば,住民の命は奪わないと約束した。ユスターシュほか数名が身を捧げた。じつに立派な態度であった。われわれの大臣たちも金利生活者に,これに習えと提言すべきであろう。だが,カレー市の側に,彼らを引き渡す権利があっただろうか。もちろん,ない。安全の権利は絶対である。祖国は誰に対しても自己犠牲を要求することができない。敵の射程内で歩哨に立たされる兵士もこの原則の例外ではない。一市民が歩哨に立つ場では,祖国もまた彼とともに危険にさらされている。今日はこの兵士の番なら,明日は祖国の番だ。危険に立ち向かうことと献身することが共通のとき,逃亡は国家反逆罪である。危険にさいしては何人も逃れる権利をもたないが,身代わりの犠牲については何人もその役につくことができない。カイアファ[イエスを処刑した大祭司]の言葉,《ひとびと全体のために死ぬのは善いことである》は,社会退廃の二極である愚民と暴君が言いたがる言葉だ。
永久債権はすべて本質的に償還可能だという。民法のこの基準を国家にあてはめるのは,労働と財産の本来的な平等に回帰しようと望む者にはありがたい。しかし,所有者の観点にたてば,また金利改定論者もいうように,これは破産者の言葉である。国家は単なる借用者ではない。国家は所有の保証人であり,守護者である。そういう立場で国家はできるかぎり最高の安全を提供する。そのおかげで所有はもっとも堅固で,もっとも侵しがたい権利たりうる。どうして国家は国家を信頼する債権者に強権を発動しながら,彼らにむかって公共の秩序や所有の保護を語るなどということができるだろうか。国家はたんに負債を弁済する債務者のようにふるまう存在ではない。国家はむしろ株主をひっかけて金を集める株式企業者である。そして,正式の約束に反して,勝手に彼らの資本の利子を二割,三割,四割,損させる。
それだけではない。国家は,共通の法律の下,社会の行動によって市民をまとめる共同体でもある。その行動が万人に所有を保証する。ある者には田畑を,またある者には葡萄園を,また別の者には小作地を,自分で不動産が買えるのに国庫からの援助を求めたがる金利生活者には金利を保証する。国家は正当な補償もせずに,田畑の一エーカー,葡萄園の一隅の提供を求めることはできない。まして小作料を引き下げさせることもできない。ならば,どうして金利を引き下げる権利を持てようか。この権利が不正なものでないためには,金利生活者は自分の資金でほかに同じくらい有利な投資先を見つけることができなくてはならない。しかし,彼は国外に出られず,また,金利引き下げの原因,すなわちより有利に借金する能力も国家にしかないのだから,彼はどこにそういう投資先を見つけられよう。であるからこそ,政府は所有の原理にもとづくかぎり,金利生活者の意志を無視して国債を買い戻すことはできない。共和国に貸し付けられた資金は,およそ所有というものが尊重されているかぎり,何人も手出しできる権利をもたない財産である。償還を強制することは,金利生活者に対して社会的な契約を破棄することであり,彼らを法律のらち外に置くことである。
国債の利率の引き下げに関する論争は,すべてつぎの問答に帰着する。
問い。年金が百フラン以下の四万五千世帯を貧困に追い込むのは正しいことか。
答え。七〜八百万人の納税者に,三フランで済むはずの税金を五フラン払わせるのは正しいことか。
そもそも明らかに,この答えは答えになっていない。論争の問題点をさらに明瞭にするために,問いを変えてみよう。敵に百人引き渡せばほかの全員が助かるのに,あえて十万人の命を危険にさらすのは正しいことか。読者よ,自分で決めなさい。
〈現状〉の擁護者たちもこういうことはすべてしっかり感じとっている。しかし,遅かれ速かれ金利は引き下げられ,所有は侵害されるだろう。それはそうならざるをえないからであり,所有は権利とされながら,じつは権利でなく,権利によって滅ぼされるものだからである。また,事物の力,意識の法則,物理的・数学的な必然によって,われわれの判断力にまつわる幻想も最終的に破壊されるにちがいないからである。
話をまとめよう。
自由は絶対的な権利である。なぜなら人間にとって自由は,物質にとっての不可浸透性と同様,それが存在するための《絶対不可欠》の条件だからである。平等も絶対的な権利である。なぜなら平等がなければ社会は存在しえないからである。安全も絶対的な権利である。なぜなら,自分の自由と生命が他者のそれと同じくらい大切であることは誰の目にも明らかだからである。以上,三つの権利は絶対である。すなわち,いずれもそれ以上に拡大せず,縮小もしない。なぜなら社会において,各人は自分が与えたのと同じものを受け取るのが決まりだからである。すなわち,生においても死においても,自由には自由を,平等には平等を,安全には安全を,身体には身体を,魂には魂を,授けあう。
しかし所有は,その語源からも法学上の定義からも,社会の枠外の権利である。かりに各人の財産が社会のものならば,生活の条件は万人平等になってしまう。《所有とは,各人が社会の所有物をこの上なく絶対的なやり方で処分できる権利である》というのは矛盾にほかならない。したがって,われわれは自由・平等・安全のために社会をなしているが,所有についてはそうではない。所有はひとつの〈自然〉権であるとしても,その自然権はけっして〈社会的な〉ものではなく,〈反社会的な〉ものである。所有と社会はまったく互いに相容れない。二人の所有者を結びつけるのは,二つの磁石を同極どうしで結びつけるのと同じくらい不可能である。社会が滅びるか,もしくは社会が所有を抹殺するしかない。
所有が絶対的で,不滅で,不可譲の自然権であるならば,どうしてひとびとはいつも,その起源にしつこくこだわるのだろうか。じつは,そこにも所有の特徴的な性格が存するからである。自然権の起源を求める奇妙さ。自由や平等や安全の権利については,その起源を問う者はいない。それらの権利はわれわれが存在することによって存在する。それらはわれわれとともに生まれ,生き,死ぬ。ところが所有は,まことにまったくの別ものなのである。法律によれば,所有は所有者なしでも存在しうる。主体なしでも能力はありうる。まだ胎児にすらなっていない人間にも,もはや生きていない八十歳の人間にも所有の権利がある。所有はこのように永遠かつ無限と思われる驚くべき特典を備えているが,この所有がどこから来たのか,われわれはいまだに何も語れない。学者たちはあいかわらず互いに反対しあう。ただ一点,彼らがみな賛成すると思われるのは,所有の権利の確かさが所有の起源の真実性にかかっているという点だ。ところが,この一致こそ彼ら全員を有罪とする点なのである。つまり,彼らは起源の問題を解決する前に権利を認めてしまっている。
他方,所有の権利のいわゆる根拠について埃を立てたり,信じがたい歴史,あるいは外聞の悪い歴史を調べたりするのを好まぬ人たちもいる。彼らは探求の自制を求める。所有はひとつの事実であり,これまでもずっとそうであったし,これからもずっとそうであろう,といって満足したがる。博学なプルードン[著者の親戚]がその著『用益権論』の冒頭で,所有の起源を問うのはスコラ的な無駄話だとしているのは,まさにその気持ちのあらわれだ。私にもおめでたい平和愛好の精神があるので,それに同調したい。もし私の同類がみな所有を十分に享受しているならば,おそらく同調するだろう。しかし……ダメだ……同調できそうにない。
一般に,所有の権利を根拠づけるものとされるのは,つまるところ,つぎの二つである。すなわち〈先占〉と〈労働)。私はこの二つを順次検討したい。それをあらゆる相貌のもと,細部にわたって検討する。私は読者にこう注意しておく。誰がどういう理論を援用しようと,所有は平等をその必要条件としないかぎり正当なものではなく,存立可能でもない。それを私は反駁の余地なく証明したい。
第二節 所有の根拠としての先占
法典を審議する国務院での会議において,所有の起源や原理についての議論はまったくなされなかった。じつに注目すべき点である。所有および従物取得権にかんする第二巻第二編の全条文が,何の反対も修正もなく通過した。ボナパルトは他の問題では法律家たちにさんざん骨を折らせたのに,所有にかんしては何も文句を言わなかった。これは少しも驚くような話ではない。比類なく身勝手でわがままなこの男の観点にたてば,権威への服従が第一の義務であり,所有が第一の権利であるのは当然だった。
〈先占〉あるいは〈先占者〉の権利は,ものの現実的、物理的,実質的な占有から生じる権利である。私がある土地を先占したら,それへの反対が証明されないかぎり,私はその土地の所有者とみなされる。本来こうした権利は相互に承認されてのみ正当なものたりうる。一般にもそう理解されるし,法律家が同意する点もまさにそれである。
キケロは土地を大きな劇場にたとえて,こう言った。《世界は大きな劇場であり,万人に開かれているが,各人が座った席は当分のあいだ当人のものとされる》
この文章は,古代がわれわれに遺した,所有の起源についての最高に哲学的なメッセージである。
キケロは言う。劇場は万人のものだが,それぞれの席は〈最初に座った人のもの〉である。すなわち,その席はあきらかに〈占拠〉されているけれども〈領有〉されているのではない。このたとえ話は,所有の無効を告げる。さらには万人の平等を含意する。劇場において,ひとりの人間が一階席と二階席と天井桟敷の三箇所を同時に占拠できるだろうか。ゲリュオンのように三つの身体をもつ怪物か,アポロニウスのように同時にいろんな場所に現れる魔法使いでもなければ,できるはずがない。
キケロによれば,何人も自分が必要とする分にしか権利がない。これは彼の有名な《各人が各自の分をもつ》という格言の忠実な解釈である。各人が各人に属するものをもつ,という格言だが,これが本意と大きく異なって用いられてきた。各人に属するものとは,各人が占有〈可能な〉ものではなく,各人が占有する〈権利がある〉ものをさす。では,われわれは何について占有する権利があるか。それはわれわれの労働とわれわれの消費に必要な分だけである。キケロが用いた劇場のたとえは,それをよく証明する。すなわち,誰もがそれぞれの席を自分の好みにあわせて整え,きれいにし,居心地を良くする。それは誰にも許されている。しかし,その行動は自分と他者を隔てている境界をけっして越えてはならない。キケロの説はけっきょく平等への権利に行きつく。なぜなら,先占とは純粋な寛容であり,寛容はまさしく互いを認めあうものであり,またそれでしかありえないから,当然,占有は平等ということなる。
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